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2018/7/2 インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」第2回:若林唯人(後編)

應典院ホームページ上で、インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」を展開しています。本連載は、さまざまにご活躍されている仏教者の方々に、社会や仏教の未来に対するビジョンを伺うもの。第2回は、若林唯人さん(浄土真宗本願寺派僧侶、「フリースタイルな僧侶たち」前代表)にご登場いただきます。後編の記事では、仏教を翻訳して伝えていくために一度「キモくなること」のススメ、その方法と心構えについて伺いました(聞き手:秋田光軌)。

仏教に求められているものは仏教

――前編では、活動で大事にされていることとして、一般の方の視点に立って仏教の教えを分かりやすく伝える「翻訳」と、人々の生きる中での苦しみに応えていく「慈悲」の二点をあげられていました。そうした視点から仏教界の現状を見た時に、どういったことが今後の課題と思われるでしょうか。

若林 仏教界の課題といっても…、僕個人の課題を投影したような話になりそうです。僕自身の課題はやはりこの二点なんです。「やるべきことは見えたけど、まだまだ出来ていない」という感じなんですよね。あ、以前に一度、宗派内の若い僧侶の方たちの研修会でお話しさせていただいた時には、同じことを別の表現で言ったんですけど、

まずは、キモくなるべし。でないと、世間と変わらない。
そして、キモくなくなるべし。でないと、世間に伝わらない。

という言葉で話を結びました(笑)。何のことを言っているのか分からないと思うので、順を追って説明させてください。

まず、「キモくなる」というのは、「仏教を信仰する」ということ。「信仰」というと大袈裟やなぁ…。仏教が自分のものになる、仏教を生きる、というか。伝わってますよね? ともあれ、「キモくなる」ために「仏教の勉強と修行を深めること」、これがまずは大事だと思っています。当たり前のように聞こえるかもしれないけど、「このど真ん中のことが仏教・僧侶に求められている」とフリスタの活動を通して感じて、改めてこのことの大事さを痛感しているんですよ。

前編でも話題に上がった)小田雄一さんから、こんなことを言われたこともありました。「僕たちがミュージシャンに第一に求めるのは『良い音楽を作ってもらうこと』ですよね。『音楽をどう売るか』に時間と労力を割くよりも、良い音楽を作ることに専念してほしい。どう売るかは、プロデューサーをはじめとしたパートナーに任せてもいい仕事。僕がお坊さんに求めるのも、それと同じです」といった言葉だったんですよね。「どうしたらお寺に人が来てくれるか、仏教の方を向いてくれるか」といったことに頭を使ったりエネルギーを割くよりも、「仏教に求められているものは仏教」なのだから、そちらに力を注いでほしい、と。

「アラサー僧侶とゆるーく話す会」をしている中でも、「仏教に求められているものは仏教」だということを、肌で感じてきました。悩みを吐露された後で「仏教では、どう考えるんですか?」と問いかけられることがよくあるからです。プライバシーもあるので詳しくは言えないですが、例えば「どうしても許せない人がいる。色々と本を読んでみたり、人の話も聞いてみたんですけど、それでも許せないんですよ。『許す』ということを、仏教ではどう考えるんですか?お坊さんは、こういう時、どうされてるんですか?」という問いかけだったり。僕は正直、すぐに答えられなかったです…。世間とは異なる価値観としての仏教を、教えてほしい。仏教を生きている人は、この苦しさにどのように対処しているのかを教えてほしいし、私がこのしんどさから解放されるために何をしたらいいのかを教えてほしい。少しデフォルメして言えば、このようなことが仏教に求められていると思うんですよね。

――とはいえ前編では、チベット仏教研究者の辻村優英さんに「『阿弥陀仏がいる』とか言わないほうがいいと思いますよ。引いちゃいます」とたしなめられて目が覚めた、という話もありましたよね。それでも、僧侶は一度はキモくなった方がいいのでしょうか?(笑)

若林 辻村さんの言葉は、当時本当にショックで。なんというか、仏教を語ろうとしたら「口が封じられて、息が出来なくなる」ぐらいのインパクトがあったんですよね。急性胃腸炎でお腹も痛くなったし…(笑)。それからは「キモいのはダメだ。キモくなくならないとダメだ」と思って頑張ってきたんですけど、その後『仏教思想のゼロポイント』などの著者の魚川祐司さんからは、「『阿弥陀仏がいる』と言い切ったほうがいい。この人についていこうと思えないから。浄土教のお坊さんが言ってくれなかったら、誰が言ってくれるんですか」ということを言っていただいたこともあったんです。魚川さんの言葉を聞いて、「キモくなくなることも大事だけど、それ以前にキモくなってるかどうかも大事だな」と思ったんですよ。

立つべき視点・見るべき方向

若林 改めてこんなことを言う理由は、自分の宗派の教えを実感できていないお坊さんも、実は少なくないのかなと感じているからなんです。以前、あるお坊さんが「『宗派の教えを実感できない』という悩みを分かち合う僧侶たちの会をしたいと思っているんですよ」と話してくれたことがあったんですよね。自分の宗派の若い僧侶の方と話していても、そういう人は決して少なくないし、フリスタに関わる中で他宗派の僧侶の方と話してみると、他宗派でも実感できていない方は少なくないんだなと感じてきました。

――私もその悩みはよく分かります。お坊さんになったからといって、それだけで完全に信じられるわけではない。

若林 僕も正直、大学卒業後に宗派内の学校で仏教の勉強を集中的にするまでは、お寺の生まれだけど「阿弥陀仏」とか「浄土」と言われても、ずっと実感がわいてなかったです。「仏教とか浄土真宗は、今の自分には関係ない教えなのかな」とも思っていました。お寺にお参りされるお年寄りのご門徒さんたちのように、死を意識するぐらいの年齢になった時に、初めて意味を持つ教えなのかなと思っていたんですよね。

「僧侶にはなったけど仏教のことが分からない」という状態は、すごくしんどいことだと思うし、そのしんどさを分かち合うことも大切なことだと思う。ただ、分かち合うだけだと、やっぱり何も変わらないとも思いますよね。「バスケの何が楽しいのか分からなくて」「分からないですよね」と聞き合っているだけだと、バスケの楽しさは分からないままです。やっぱり実際にバスケをしないと。最初は楽しくなくても、だんだんバスケの実感が伴ってきて、どこかのタイミングで「楽しい」に転じると思う。だから1日だけで終わらず、辛抱強く、長く、頻繁に、それも“濃い”場でというか、心底バスケを楽しいと思っている先生・先輩と一緒にやるのがいいでしょうね。学びの環境としては「初心者のみの場」は危うさを感じるし、「先生と1年生のみの場」もあまり良くない気がしていて、個人的には「先生がいて、5年~10年ぐらいの先輩と一緒に学べる私塾的な場」を探して選ぶのがいいんじゃないかなと思っています。ちなみに、大学はこの場合の学びの場としては適さないですね。基本的に学問は信仰を持ち込まないものなので、仏教の知識は増えていっても、それが自分が生きる上で意味を持つものにはならない“嫌い”があると思う。行・学ともにある場が、いいでしょうね。

ともあれ、修行をしたり勉強をしないといけない、ということです。本当に、当たり前のことですけどね(笑)。でも、足りてないんじゃないかな。僕は自分のことを省みて、今もそう感じています。小田さんの言葉や、イベントに参加していただいた方の問いかけを思い返すと、そう感じざるを得ないです。

――なるほど、よく分かりました。ただ、本当にキモいだけだと何も伝わらないので、一度キモくなってからキモくなくなるという、その順番が仏教の「翻訳」につながるということですね。

若林 はい。キモいままだとダメですよね(笑)。この場合の「キモくなくなる」というのは、辻村さんの言葉を借りれば、「仏教が分からない/キモいと思う人の視点に立てるようになること」だと言えます。もう一つ、魚川さんの言葉からは、「この人の話なら聞いてみてもいいかもと思われる存在になること」だとも言えるでしょうね。

仏教を、専門用語できちっと理解することは、当然のことながらものすごく大事だけど、内輪の言語だけでしか仏教を語れなかったら伝わらない。でも一旦、内輪の言語に慣れてしまうと、それが内輪でだけ通じる、特殊な言語・世界観だということが分からなくなってしまいがちです。以前の僕は、そんな感じでした。

海外で外国人の方に仏教の話をしようと思ったら、否が応でも翻訳しないといけない。だけど日本で仏教の話をする時に厄介なのは、その内輪の言語も日本語の顔をしているから、「翻訳」という発想に至りにくいことかもしれません。僕は、辻村さんにズバッと指摘していただいたことが、最初の鮮烈な気づきでした。それ以降、フリスタの活動などを通して「外」の方たちと対話をし続ける中で、少しずつ感覚をつかめてきた気がしています。海外に留学して、しばらくネイティブの人としか話ができない環境に身を置いたら、少しずつその国の言葉を話せるようになるのと似ていますね。「翻訳」の力を培うには、「外」に出て、対話を重ねるしかないと思う。そして、そのように対話しつづける中で、相手の視点に立った時の仏教の風景も見えてきますよね。

「翻訳」や「相手の視点・立場に立つ」というのは、もちろん言葉の用い方だけじゃなくて、場の持ち方とか情報発信の仕方とか、関わり方全般について言えることです。例えば、「お寺でどのような催しをするか」を検討する時に考慮すべきなのは、「受け手の声に耳を傾けて、その声に応えること」。逆に僧侶が内輪の発想だけで考えた企画は、どうしても供給者目線が強くなってしまう。それだとダメだなと、身をもって感じてきました。

受け手の声に耳を傾けるという時に、私たち僧侶が取るべき大切な姿勢は、「フリースタイル」と言うと手前味噌に聞こえるかもしれないですけど(笑)、固定観念にとらわれない、ということでしょうね。「さすがに、こんなことをするのはどうなんだろう」とか、「上の世代から怒られはしないか」とか、つい考えてしまうと思うんですけど、そこから自由になって声に応えるのが大切ですね。

法然上人の「慈悲」に倣って

――前回、松本紹圭さんにお話を伺ったときも、この話題になりました。あらゆる執着を率先して手放していくはずの僧侶が、実は既存の仏教のあり方に激しく執着してしまうことがある。

若林 執着を手放すというのは、それほど難しいことなんでしょうね。他人のことは簡単に言えても、いざ自分のこととなると途端に難しくなる。僕も未だになんですけど、見る方向が逆になってしまうんですよね。「上の世代に怒られはしないか」とお坊さんの方向を見るんじゃなくて、悩みや苦しみを抱えている人の方向を見ないといけない。『フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン 第43号』では、尼僧アイドルの光誉祐華さん(元・愛$菩薩)を特集させていただいたんですけど、その号の編集後記でこんなことを書いたんですよ。

ベンチャー企業を立ち上げた友人の言葉が、常に脳裏にある中での編集だった。「好きな仏教者は法然」という彼は、その理由を次のように語る。「法然さんが既存の仏教サイドの怒りを買ったのも分かります。それまでの仏教全否定ですから。一緒に学んできた人やお世話になった人を裏切ることになる。それで自分も流罪にあって、弟子は殺されたし。そこまでのリスクを犯したのは、『死というリスクを超える利他心』があったからだと思うんですよ。『念仏のみ』という極めてシンプルなソリューションを経典から読み取って、複雑だった仏教を根本的に変革して、世の多くの人に配った。法然さんは世の苦しみを見てはったんだと思います。自分や仲間の命より、人類を救うことを取った。そこに感動する。時を超えて心を打つんですよ」

この「友人」も、実は小田雄一さんなんです。僕の半分は小田さんで出来ているので(笑)。まぁ、それはさておき、法然聖人は本当にすごい方ですよね。「念仏のみ」というのも、いい加減な理解で言われたことではもちろんなくて、徹底的に「経・論・釈」を読み込まれた上での教理だし、当時の時代に応じた「翻訳」という意味でもすごいし、「フリースタイル具合」も最高だし、何よりも小田さんが言ってくれた「死というリスクを超える利他心」にシビれますよね。本当に畏れ多いけれども、お手本にさせていただきたい方だと素直に思います。法然聖人の「慈悲」の姿勢に倣って行動しつづける中で、魚川さんが言ってくださった「この人についていこうと思う」・「この人の話を聞いてみようと思う」存在に、気がついたら少しは成れているかもしれないなと思っています。

もうずいぶん前になりますけど、フリスタのイベントに参加してくださった方から「仏教の中級編にナビゲートしてほしいんですよ」と言ってもらったことがあって。言わば「仏教の初級編」のようなものは増えてきましたよね。フリーペーパーもその一つだろうし、参加しやすいイベントとか。逆に、ガチの「上級編」なら、これまでにもありました。専門書とか、ガチの法座・修行とか。だけど、仏教をもう少し深く知りたいとなった時の「中級編」にあたるものは、まだまだ供給不足な気がしています。少しずつ増えてきてはいますけどね。

もちろん仏教を押し付けたいわけではないけど、仏教を求めてたずねて来られた方には、応えたいですよね。僕には、その力がまだまだ無い。だから、せめてそういう方たちには応えられるように、頑張っていきたいです。

というわけで、色々と言ってきましたけど、「俺の言うことを聞いてくれ。俺を含め、誰の言うことも聞くなよ」(♪竹原ピストル『よー、そこの若いの』)なので(笑)、ご参考までに、です。

――法然さんの話は私も白熱してしまうんですが、ここでやるのはキモいと思うので、別の機会にぜひ(笑)。さて、この3月で代表を交代されたということですが、今後のフリスタについて教えていただけますか。

若林 分不相応ながら代表を経験させてもらえたのは、本当に有り難いご縁でした。大変だったけど、良かったなぁ。新代表は真言宗僧侶の加賀俊裕さんで、すごくリーダーシップがあって、人を惹きつける魅力があるんですよね。フリスタでは特に、朝日新聞社さんとフリスタが主催した「修行体験ブッダニア」という大きなイベントを引っ張ってくれて。これからのフリスタを託せる、頼り甲斐があるお坊さんなんですよね。それで、これからのフリスタのテーマを「日常」にしたい、って言ってくれてるんですよ。例えば坐禅でも、余程のことがない限り、1回しただけだとその時は何か変わった気になったとしても、何も変わらないですもんね。でも、その坐禅が「日常」になって、習慣になってくることで、だんだんと仏教が自分にとって意味を持ってくる。僕自身、これからのフリスタがすごく楽しみなんですよね。

僕はフリスタに関しては、「監督兼プレイヤー」から「一(いち)プレイヤー」に戻った感じです。引き続きしばらくは、「アラサー僧侶とゆるーく話す会」に行ったり、フリーマガジンの編集もお手伝いしたり、平社員的な立場でサポートしながら、後進に譲っていこうと思っています。

――ありがとうございました。最後に、今後の應典院に期待することを教えてください。

若林 繰り返しになりますけど、「お寺でイベントをして人が集まったとしても、その人たちの苦しみに応えられるかが、宗教者の本質的な仕事ではないですか?」という小田さんからの問いかけが、僕のターニングポイントの一つでした。今後の應典院は「寺院主体での葬送文化の創造」に注力されていくと伺いましたけど、「葬式をしない寺」としての再建から20年を経て、世の人々の苦しみに改めて向き合った時に、その活動内容を変える決断に至ったのだろうと理解しています。このお寺自体が、仏教を中心にして演劇や哲学などの異領域が混ざり合っている、他にはないコミュニティですよね。これまでとはまた違った意味で、應典院が社会を揺り動かす現場になっていくのは面白いだろうなと期待しています。

いわゆる檀家寺としての大蓮寺があることで、應典院なら他のお寺が躊躇してやりにくいことにも、フットワーク軽く挑戦できる面があると思う。もしかすると、秋田光彦住職と光軌主幹以外に、應典院に色んなお坊さんがいても良いかもしれないですね。「チーム應典院」みたいな。自分のお寺ではないからこそ、「外」の應典院だからこそ、チャレンジできる活動もたくさんあると思います。應典院は浄土宗のお寺ではありますが、社会活動としては宗派の垣根を超えて、お坊さんが様々に社会にアクセスする拠点になれば素晴らしいですね。

人物(五十音順)

若林唯人
(浄土真宗本願寺派僧侶)