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2018/6/11-12 斉藤成美:「New踊り念仏探究会 第3回」を開催いたしました。

去る6月11、12日両日、「New踊り念仏探究会」の第3回目を應典院にて開催。今回、主催者のひとりであるダンサーの斉藤成美さんから開催報告を寄稿していただきました。読書会とワークショップ、それぞれの場の様子や、気になったトピックをまとめてくださっています。


New踊り念仏探究会-第3回-を6/11月、12火、19:00〜應典院の研修室Bで行いました。

11日は読書会、12日は身体のWSという構成です。
ご参加くださった皆さま、ありがとうございました!今回も様々な方にご参加いただき、様々な話が出てきました。長くなりますが、下記にご紹介したいと思います。

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6/11(月)読書会

読書会は前回と引き続き『法然親鸞一遍』(釈徹宗 著、新潮新書)を取り上げての話し合いです。前回あまり触れられなかった4章の法然親鸞一遍の比較を取り上げつつ、それぞれ参加者の興味や疑問をもとに、本の内容に戻り掘り下げるように進みました。ここに書ききれないのですが、気になったトピックをいくつかご紹介します。

・法然は、中空構造に立って、中軸を形成しようと思考する。生涯出家者。妻帯。
・親鸞は中軸(中空)構造に立って、中軸(中空)でありつづけようとする。世俗の中にいて、非僧非俗と自らを呼んだ。
・一遍は、中軸構造に立って、中空を思考する。生活面でのストイックさ、遊行という形態をとる。熊野権現、札、踊り。妻子はいたが独り身に。

・プロテスタントと親鸞の類似性
キェルケゴールを例に、プロテスタントの明快な「神と私」の二元関係が、神の前に佇む単独者としての個を生み、神に背き続ける苦悩の我を自覚させたという図式。これが法然思想と親鸞の間で起こったことと近しいのではないか。仏教的一元構造を法然が解体し、二項対立・取捨選択により選択的に一つの道を選び取るという選択的一神教の性格を帯びたゆえの、実存的宗教者といえる法然を生んだといえるのではないか。

・法然の二者択一による念仏
迷いの世界から離れたければ、「聖道門」ではなく「浄土門」を選びなさい。「浄土門」に入るなら、「雑行」を捨て「正行」に帰しなさい。「正行」を修めるならば「助業」は傍に「正定業」を修めなさい。「正定業」とは、仏の妙号を唱えることだ。称名する者は阿弥陀仏の本願により必ず浄土へ往生する。

その他、朝掃除について、法然はロックのようだ、親鸞の田植え唄がある?、地獄絵図の滑稽さ、社会的価値とこぼれたものをことの宗教と芸術の役割、マインドフルネスは仏教から宗教色を取り除いたもの?、より宗教色が増すとは?、マントラと念仏、宗教色がないものが都合のいいように扱われやすくなるとき自分の選択が問われる、仲間は必要?、縦割や年功序列、大乗仏教とは?

・鎌倉時代仏教が盛んに。平安時代が終わり、悲惨な状態だった?神道には教えや極楽はないために、浄土という強いビジョンが必要になったのでは?

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というところからの、6/12(火)
身体をつかうWS

ダンスと念仏踊りの明確な違いは死や供養の概念が根本的に含まれているかどうかにかかわるかもしれないということで、こちらのWS前半は、「浄土って何だろう?」「死後って何だろう?」というテーマで話し合いました。教師、演劇、音楽関係、宗教従事者、アートマネジメント、など十数名の様々な職業の方がいらっしゃいました。自己紹介をしながら、浄土に関する様々なテーマが出てきました。以下列挙。

・浄土が沢山あるってどういうこと?
・夜に爪を切らない、バチがあたるなど、今も信じていることはあるかもしれない
・死んだら無?
・生きる=死ぬ / 生きながら死ぬ
・死後のことは考えていない。どう生きるかの方が大事
・異界はありそう
・踊り念仏はこの世で安らぎを感じる方法?自分の好きなことを自由にやるのもその方法の一つとなるのでは
・小さい頃クリスマスと花祭りが両方あった
・一遍の身体性って?
・ニュータウンなど、大木や祭がない、精神の軸がないなかで、自治をどうしていくか
・集団でやらされるのは嫌い→今は好き
・ギター河内踊り など、新しいものが生まれていくプロセスは興味ある
・輪廻から外れて虫や畜生になるってどういうこと?
・ちんどん 日本の音楽のパターンを西洋音楽で
・原始的な宗教観、いろんな神があると感じる
・バチがあたる、誰かが見ているかもしれない
・浄土は理解はしていても腑に落ちない
・だんじり
・祖母の歴史を聞き出したり
・死んだら記憶を消して欲しい
・福音書 違う人が書いてまとめた4つの書
・キリスト音楽との違い?三位一体のトランス。不協和音はない
・より良い生き方をする。その人の中で積み重ねたものを誰かと共有できるかも
・物語とともに生きることで自分も生きていけるし、他の人も支えていける。よく生きるための技としての宗教
・浄土はコンディションによるのでは?(念仏する際)
・美坊主図鑑気になる

浄土への理解がわからないながらにも深まったような広がったような。

この後、声を出したり身体を緩めるストレッチをし、僧侶の岩田尚登さん主導のもと、時宗の念仏の独特な節回しで唱えてみるなどをしました。はじめ作奏の鐘の音は西方浄土への合図。

次回以降、様々な流派の念仏や時宗の踊躍念仏に注目しつつ、現代版踊り念仏を作る実践の方も、もう少し深めていきたいところです。


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岩田さんの話といただいたプリントより。時間内に紹介しきれなかったので、こちらで。
<日本経済新聞 美の美 「踊るひじり 一遍」上 2016.8.23 文・内田洋一 より要約>

すてひじり(捨聖)と呼ばれた一遍。
一遍の教えの元に集まったもの達を時衆といい、後に江戸時代に時宗と表すようになった。踊って往生する。街角で踊り念仏をし、お札を買ってもらうなどしていた。
かわら者“あみ”、遊芸職人芸に秀でた人達の信仰が厚かったと言われる。阿弥号を用いることもあった。

1279年、一遍40歳。飢饉や天災、次の蒙古襲来を恐れる闇深き時代。長野県の佐久地方、小田切の里の武士の館に着く。墳墓の前で、一遍一行はいつとはなしに踊り始めた。真ん中に尼僧、周りの男や女が楽しげに踊り、一遍もついちは鉢らしきものを叩き出す。これが踊り念仏の発生シーンといわれるらしい。<一遍聖絵「小田切の里」(第四巻)参照>

歌舞や音楽で神や霊魂を揺り動かし、喜ばせ、鎮魂の力を働かせる「遊び」だ。
遊行する一遍の心にいつもあったのは、踊るひじりの先達、空也の文があった。念仏はどのように唱えるものですか、と問われた一遍は空也の言葉を答えとした。「捨ててこそ」

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9/16(旧暦8/23)は一遍上人の命日です。踊躍念仏を神戸にある時宗のお寺、真光寺で踊るそう。真光寺は一遍上人の亡くなった所です。

また、9/10(月)の19:00から應典院で、岩田僧侶に踊躍念仏の一部を教えていただきます。(詳しくはこちら→https://www.facebook.com/events/2102265093370872/?ti=icl)

観に、あわよくば踊りに行かねば…!