イメージ画像

2018/10/10 インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」第3回:中平了悟(前編) 

インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」を展開しています。本連載は、さまざまにご活躍されている仏教者の方々に、社会や仏教の未来に対するビジョンを伺うもの。第3回は、地域と連携した多彩なイベントを展開されている中平了悟さん(浄土真宗本願寺派西正寺副住職)にご登場いただきます。前編では「お寺とはどういう場所か」について、活動を通じた現在の思いを伺いました。(聞き手:秋田光軌)。


地域とつながり、社会課題に取り組む

――今年の夏も「カリー寺」がすごいにぎわいだったようですね。境内でカレーを食べたり、文化にまつわるトークや音楽を楽しむこのイベント、今年で3年目ということですがいかがでしたか。

中平 未明に台風の通過があって開催できるかどうか不安だったんですが、予定通りに開催できたことが何よりよかったです。600人くらいの方が来てくださいました。単にカレーを楽しむだけでなく、人の交流やつながりが生まれる場になるという当初の目的も果たせたかなと。また3年目の新しい試みとして、第2会場を設けたり、地域のお店とコラボレーションするという展開ができました。その中でまた、多くの課題や反省も見つかりました。

――お寺とカレーの組み合わせは、確かに言われてみるとすごい納得感があるんですが、なかなか誰も思いつかなかった。面白い発想はどこから生まれたのでしょうか。

中平 もともと僕の中にはなかったアイデアです。「尼崎ENGAWA化計画」という名前で、尼崎でコミュニティや場づくり、まちに係わる活動をしている藤本遼さんという、二十代の若者がいます。彼が2016年のゴールデンウィークにカレーイベントに行って、お寺でカレーのことをやるのは面白いんじゃないかと思いつき、提案をもらいました。食べ物を扱うリスクもあるなど、少し迷いましたが、彼と一緒に一つやってみようと前向きに返事をしました。あそびもいくつか入れていて、名前も「かりーでら」って、「藤井寺」のイントネーションで読むんですよ、とか、わけのわからないこだわりを示してみたり(笑)。準備の中、想定外のことが色々あって、50人くらい来てくれたらいいよねって言っていたら、フェイスブックページを公開するだけで「いいね」が1000、「参加予定」が300もついた。心づもりして500食分用意していましたが、2時間半で全部なくなるくらいの大反響でしたね。

毎年、参加者もさまざまな人がいらっしゃいます。カレーだけ食べてさっと帰っていく人もいれば、本堂のワークショップに5時間座りつづけ、なぜか打ち上げにも参加して、翌日の別のイベントにもまた参加している人とか。まさしく満喫ですね。普段お参りに来られる檀家さんはおじいちゃんおばあちゃん世代だけど、そのお子さん・お孫さん世代が来てくれて、その人たちとお寺で話ができるのもうれしいです。

――お寺が会場になることで、コアなカレー好きでない方も足を運ばれているのでしょうね。とはいえ、カレー目的で来られる方が大半だとは思うのですが、そこに仏教をどう絡めていこうとされていますか。

中平 僕自身がお坊さんであることと、ここがお寺である、というのは最大限意識していますね。ただ、来てくれた人に仏教のしきたりを要求することはないし、教えを分かってほしいという気もそんなにありません。「カリー寺」はハードルの低いイベントだと言われていて、もちろんお寺に来て感じてもらえるものはあるだろうけど、こちらから参加の前提や条件的に何かを伝えようとすることはないですね。ただ他のイベントでもそうなんですけど、こちらが何か伝えようとしなくても、参加者が「ここがお寺であること」を意識したり、宗教的なものを感じたり、思い出したりすることは頻繁に起こっているという手応えがあります。

僕はお寺の人間で、もちろん主催者のひとりではあるんですけど、「カリー寺」は僕の中にもともとなかったアイデアなので、あまり「私のイベント」だとか「自分のもの」だっていう感覚はないです。僕も「カリー寺」に乗っかっている人間だっていう意識があるのかもしれないですね。

――その意味でいうと、お寺で社会課題について語り合う「テラからはじまるこれからの、ハナシ(略称:テラハ)」は、逆に中平さんのご関心が強くあらわれている印象があります。そちらはどういうことを意識した場作りをされていますか。

中平 「テラハ」は、僕と交流のある社会課題の専門家、第一線で活躍している方が来てくださっているので、そういう人を前にして地域の皆で何か考えられたらと思っています。参加者の多くは一般の方で、特別な専門性を持っているわけではありません。しかし、専門家の知識を地域のなかに放り込むことで、社会課題をキーにして地域の人同士のつながりが生まれる可能性があるのではないかと思っています。僕自身も来てくれた人とつながって、一緒に何かできることがあればいいし、そういう「引っかかりの場」になれたらと思います。

また、仏教者としての僕、お寺の人間としての中平が、その社会課題に関心を持っていることを、ある意味周りに宣言するイベントでもあると思うんです。何もしていなければ、ただのお坊さんってなりますけど、たとえばLGBTのことを取り上げていると「あ、このお坊さんはセクシュアリティのことに対して思うところがあるんだ」というメッセージになりますよね。皆に仏教を知ってほしい、受け取ってほしいというよりは、お坊さんである僕がその問題に関心があって、果たして何ができるんだろうとか、お坊さんとしてどういう関わりをもって振る舞うことができるんだろうとか、そうした問いを自分自身も考えているように思います。仏教という宗教や思想そのものというよりも、それらを学んできたお坊さんとしての中平やお寺という社会的存在が、社会課題に対して何かできることはありませんかと、そういう問いかけを投げかけている場であるのかもしれません。

「お寺がある理由」を問われる時代に

――なるほど、必ずしも「仏教との出会いをどう作るか」というところに重点が置かれていないんですね。今はお寺でのイベントも頻繁に行われるようになりましたが、別に布教にはつながらないし、檀家も増えなければ大きな収入があるわけでもない。そういうスタンスでいるかぎり、お寺を開いてイベントを行うことにはジレンマを感じ続けると思うんです。ところが中平さんのお話はちがっていて、仏教との出会いを目的にはしていない。ご自身が教えを持っていらっしゃって、あくまで僧侶である自分が社会に対してどういう関わりができるのか、という部分を見つめていらっしゃる。ただ、そうなると布教はどうなるんでしょうか。

中平 教えを伝えるのはかなり先にあると思います。まず従来型の檀家や信者が増えると期待することは限界があると思っています。「イベントで人が来ました、そこで仏教との出会いがあって檀家さんが増えました」というのは、今まで通りのお寺という組織のあり方が前提になっているので、その時点でちがうなと思うんです。「カリー寺」にしろ「テラハ」にしろ、僧侶として地域との新しいつながりを求めている理由は、やっぱり今までのお寺・コミュニティのあり方では難しいという問題意識があるからなんですね。

具体的な話をすると、月参りの時にある檀家さんから「阪神淡路大震災から釣り鐘が倒れていますけど、修理の際は協力するので遠慮なく言ってくださいね。できることがあったらしますんで」と言われたんです。それとなく、どうしてそんなこと言ってくださるのか聞いてみたんですよ。なぜかっていうと、実はその方、地域のお付き合いはされているけどお寺に一回も来たことがないんです。檀家さんではあるけど月参りだけで、積極的にお寺に来るタイプではないのに、お金は出してくれるって言うんですよ。そうしたら「この年になったら、お寺とか神社に貢献させてもらうのは当たり前だ」とおっしゃっていて、僕はカルチャーショックを受けました。その方や、僕らの父親世代はお寺とか神社とか、地域に貢献するのが当たり前なんですけど、僕らの世代はそうじゃないですよね。なんでお金を払わないといけないのか、そこに係わることにメリットがあるのか、理由を説明してほしいというメンタリティだと思うんですね。以前は当たり前、常識だったものがそうではなくなった。これから先、ただ同じ地域にいるというだけで釣り鐘の修理等に当然のようにお金を出してくれるなんてことはなくなって、なぜお寺がこの地域にあるのか、お寺とは何なのか、そういうことを説明し、理解や共感を得ることが必要になると思います。

たとえば地震で本堂が崩れて再建しないといけなくなった時、きっと問われると思うんですね。本当にお寺がお金や諸々の負担を引き受けてまで必要なのかどうか。「そんなにお金がかかるのに、再建する必要はない」っていう答えになるのか、「この地域にお寺があることで、私たちは精神的に豊かに過ごすことができる。だからお寺が必要なんだ」っていう答えになるのか。今何もしていなかったら、将来お寺にNOを突きつけられる時代がやってきます。地域にお寺があって、そこにお坊さんがいる意味を問われる時代に、旧来の「お寺に貢献するのが当たり前だ」っていう人を増やすのは無理があります。檀家であること、維持や修理のために負担を負い、協力するのが当たり前だとは思っていない人たちと「でもお寺って必要だよね、いざとなったら自分たちが支えて、協力したい」と思える関係性をどうやって築いていけるか。

お寺は主客が転倒する場所

――非常に大事なお話だと思います。あらためて、中平さんにとってお寺とはどういう場所ですか。

中平 「カリー寺」の時に、オープニングのトークの中で藤本遼さんと二人で「お寺とはどういう場所か」について喋ったんですけど、そこで彼が「お寺をどう使えるのかを考えてほしい」という投げかけをしてくれました。多くの人が「お寺って何のためにあるんだろう、意味のあるものとして使ってほしい」と感じるのは事実だと思うんです。一方で引っかかったのは「お寺をどう使えるのか」っていうことばでした。ところが、僕らは自分のためにお寺を使おうとは思っていないんですね。これまで支えられてきたお寺を守っていく、お寺に向けられている思いや願いを大事にしていくという視点からすると、お坊さんって「お寺に使われる存在」なんですよ。決してお寺を使う側の人間じゃなくって、ほとけさまに、お寺に使われていく側の人間。そして、檀家さんやお寺を支えてきた人々の思いっていうのも、「お寺のために掃除をする」とか「行事があるからお参りしなきゃ」っていう風に、お寺をどう使ってやるかじゃなくて、お寺のために、自分自身や自分のもちものを使ってくださっていたんですよね。使われる側なんですよね。お寺は、お寺を使う人間ではなく、お寺に使われる側の人がいるからこそ支えられている。

お寺って、関わっていく中で、どこかしら「使う/使われる」の逆転が起きうる場所なんじゃないかって思うんですよ。僕なりにことばにすると、社会では自分の欲求とか思惑が先にあって、それで何かを成し遂げていくという方向があるけど、宗教的な場所っていうのは逆に自分が使われたりとか、自分のためじゃなくて誰か・何かのためにはたらく場所としてある。だから、うちのお寺のイベントも「一緒につくりましょう」って皆に言っているんですけど、お寺が何かを提供するんじゃなくて、そうした主客が転倒するような場のあり方っていうのは、一度どこかで突き詰めてもいいのかなと感じています。

でもそうですね……、お寺とは何かって正直わからなくなってくると言った方が正確かもしれません。その答えを探しているのかもしれません。イベントに来る人が「お寺でこんなことするんですか?できるんですか!?」って、お寺に対する色んな思いを持ってくださっていて、驚くことが多いんです。お寺ってそんなイメージだったのか!っていう。ところが、誰も「お寺がどうあるべきか」っていう、誰もが納得しうる説明ができるわけじゃないんですよ。たぶん僕が「お寺とはこうあるべき」って言ったら、そこそこ納得されちゃうと思いますけど(笑)、外から定義されるまでもなく、皆がそれぞれ自分の思いやイメージをお寺に持っているんじゃないかな。それってすごいことですよね。だから「お寺ってどういう場所ですか?」って聞かれたら、下手にことばにせずに「お寺ってお寺なんです」って答えられるようになっていけることが一番すごいことなんじゃないか。なんとなく共有できるイメージがあることが、お寺の強みというか、宗教的なものが根付いている場の強さかなと思っていて。「お寺って学校みたいな学びの場ですよ」とか、集会所、会議室、礼拝施設ですよとか、色んな機能を付与することはできるけど、お寺の持っている性質とか期待、価値みたいなものは「お寺なんです」としか言えない多様性があるんですよね。「こうあるべき」っていう枠をくくるよりも、そんなモヤッとした空気感をあえて表現できないかと思っています。

(後編につづく)