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2018/9/20-23 坂本涼平:「その日、恋は落ちてきた」上映会&トーク | 應典院コミュニティシネマシリーズvol22 レビュー

去る9月20日から23日に、「その日、恋は落ちてきた」上映会&トーク | 應典院コミュニティシネマシリーズvol22が開催されました。今回は、劇作家・演出家の坂本涼平さんにレビューを執筆していただきました。


演劇を映画化する。それも、一人芝居を映画化する。一人で物語を表現し続けるという俳優の狂気と妄想を、一度「意図を持って見られたもの」とする試みを目の当たりにする体験は、私にとってスリリングだった。

應典院で映画を観る。それは、普段、演劇のための劇場空間として接することの多い私にとって、あまりピンとこない体験になるかと思われた。あの本堂の独特の広がりは、想像力の広がりに重なり、物語世界を増幅するものであると常々考えていたからだ。それを、四角いスクリーンに限定して、どうなるものかと疑っていたのである。

結果として、私は本堂ホールの新たな魅力に気づくことになる。演劇における四方八方への広がりは、映画においては、さながら画面奥への深みとなって、こちらに迫って来たからである。特に、転がるようにストーリーが展開していく今回の映画にはぴったりだったように思う。映画の吸引力が、本堂ホールの深みと相互作用していたように思えた。

さて、私は、この映画のストーリーについて「転がるように」と書いた。それは、物語の構造のシンプルさが力強い推進力を生んでいるからだ。この映画は、飛び降り自殺の現場に居合わせた女性が、そのショックを恋のドキドキと勘違いして、初めての恋の成就に邁進するという筋立だ。要するにPTSDの症状を恋の病にすり替える一つの大嘘を軸に話が展開していく。物語は一つだけ大きな嘘を必要とするという。この古典的かつ王道の大原則は、概ね、物語の推進力となりうる。しかしそこに、演劇ならば演出の妙、映画の場合は画作りやカットの構成の巧みさが伴わなければ早晩物語は失速するのだが、果たしてこの大嘘に観客を乗せたまま最後まで走り切る技術が、この映画にはあったと思う。

顔のアップやバストショットの多い画面構成は、この映画が基本的には主人公の主観、言ってみれば思い込みや妄想で成り立っていることを暗黙のうちに了解させる。この映画の場合、ちょっとでも観客に客観性を抱かせてしまえば、先の大嘘の魔法は消えてしまうからである。いわば、観客の「そんなわけないやろ」を封じる策が必要なのである。

画面構成以外にも、前半における笑いの入れどころも「そんなわけないやろ」を封じるためには正しかったように思う。ストーリー上、無理を通さねば展開できない局面は、しばしば笑いによって打開されていた。

また後半は、飛び降り死体の親族による語りを、山を登るという観客にとってもエネルギーのいる動きとともに表現することで「そんなわけないやろ」を回避する。映画において「語り」のシーンはともすれば退屈になりがちだ。筋を追うのに頭も使う。いわゆる観客に対する負荷の大きいシーンだ。疲れて一度画面から心が離れれば、「そんなわけないやろ」が頭をもたげてくる。しかし、この映画では、「語り」と同時に山を登らせることで、観客の心を掴んで離さない。なぜなら、山を登ると言う行為に、観客は登りきった目的地を想像するからである。目的地を想像する限りにおいて「語り」の負荷は山登りを追体験するエネルギーと混同されて、発散されず内側に溜め込まれる。発散されるエネルギーは退屈を呼ぶが、溜め込まれるエネルギーは期待感を生む。その期待感で「そんなわけないやろ」と思わせることなく、物語を最終局面へ導くのは、いかにも妙手だったように思う。

それらの手法によって、私はこの映画を大いに楽しんだ、とは、実は言えない事情がある。この作品は、一人芝居として上演された演劇作品を映画化したものであるが、正直に言えば、この物語は一人芝居でこそ面白いのだろうな、という考えが私の頭から離れないのである。その一人芝居を観ていないので、真偽のほどはわからないが、きっとそうだと思えてしまうのである。それはなぜか。一人芝居であれば、ハナから語られる物語はその登場人物の主観でしかないのは自明である。なによりも、具体的な場所やもの、他者の存在しない一人芝居では、客観性の持ちようがないのである。例の大きな嘘の鮮度を保ちやすい、と言い換えてもいいだろう。つまり、先に述べた「そんなわけないやろ」を回避する様々な技術をそもそも使わなくてもいいのが一人芝居であり、映画にしたことで、この物語は、当初物語を書いた作家が想定していなかった苦労を背負い込むことになったのである。そこが私の中ではモヤモヤとした引っ掛かりとなって残ってしまった。

私は、物語の摂取の作法としては、どっぷり浸りたいタイプである。方法論や技術論は脇に置いておいて、単純に面白がりたいのである。それが、今回は難しかった。一人芝居であれば起きない問題を回避するための様々な工夫、その多くは素晴らしい、創造的な工夫が、見えてはいけない舞台裏のように見えてしまったからである。

映画は、視点が固定されている芸術である。誰かの眼差しを借りる芸術である。それが、今回の物語の大嘘、恋という見えないものをすり替えるという、人間の主観的なところに拠った大嘘とは相性が良くなかったのでは、というのが、正直な感想である。

 

○レビュアープロフィール

坂本 涼平(サカモト リョウヘイ)

劇作家・演出家。1985年大阪生まれ。芸術学修士。研究テーマは「悲劇論」。
2009年に劇団「坂本企画」を立上げ。「ほんの少し、ボタンを掛け違った人間の悲劇に寄り添う」ことをテーマに掲げ、非日常的な世界での静かなセリフのやりとりに、社会に対する寓意をしのばせる演劇を作り続ける。
ロクソドンタブラック(現Oval Theater)主催「ロクソアワード2012」スタッフワーク部門最優秀賞、演出部門三位、総合三位受賞。演出助手として、baghdad cafe’ the 18th performance『野獣降臨』に参加。

12月22日(土)~24日(月) AI・HALL
公演詳細→ https://stage.corich.jp/stage/937

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坂本涼平
(劇作家・演出家)