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12/14 演劇ワークショップ「子供鉅人と子どもたち~みえないものがみえてくる~」

「みえないものをみる力」
益山貴司(劇団子供鉅人代表)

大人へのワークショップは意外と簡単な所がある。演劇は身体を動かし、感情を表に出すことを要求される。言いかれば、子供の頃のようにふるまうことでもある。大人というのは子供が大きくなったものであるから、童心に帰ることは―程度の差こそあれ―可能なことである。「社会」というタガにはめられている分、心身の解放を許可されると、喜びや快感を実感しやすい。
翻って子供たちはどうか。「見えないものを見る」というタイトルでワークショップを子供たちと行ったが、やり始めてすぐに、私は己の傲慢さに気付かされた。子供たちはすでに「見えないもの」が見えていたのだ。普段、ごっこ遊びで鍛えられている彼/彼女たちにとって、見えないものなどないのだ。「子供たちはこういう風にしてくれるだろう」といった大人の下心丸出しのワークショップなど簡単に見破る。うかうかすると、遊んではくれるが、学んではくれない。

それでも、大人と子供に共通した「見えないもの」は存在する。それは何か?自分以外の物/者になることである。演劇で言えば、「役」を演ずることである。「心身の解放を許可」という表現を用いたが、「役」というのは、まさに「許可証」なのである。例えば、普段、声も小さく、なかなか人々の輪に入らない人物が、舞台の上では大声で堂々たる演技をみせることがよくある。ワークショップの際にも、ずっとシャイだった女の子が、人魚姫という「役」を与えられた途端、活き活きと動きだし、積極的に劇へ参加してくれた。

世界は自分だけのものではない。他者との関係性なくして生きて行くことはできない。しかし、他者の視線で物事を考えることは難しい。演劇で「役」を演じることは、他者の視界という「見えないもの」を見る訓練になりえる。「お母さん」になれば、家庭のなかで自分たち子供を、お母さんはどのように見ているか、「犬」になれば、自分たち人間を、動物たちがどのように見ているか、これまで見えなかった視界を体験できるはずである。

演劇から何かを得ることができるとすれば、こう言えるかもしれない。大人は心身を解放し、子供は社会性を学ぶ、と。ワークショップの対象者は、主に小学校低学年の子供たちであった。家庭という一番小さな社会から飛び出し、大きな社会へとコミットしはじめる年頃である。それはつまり、世界における自分の「役割」を自覚していく時でもある。「役割」は、時に残酷な一面をもつことも事実である。いじめの根本的な原因の一つに、「いじめられる役」を周囲からキャスティングされてしまうことがあると私は思う。誰しも、いい役が欲しいに決まっている。しかし、世界にはそうではない「役」も同等に存在する。演劇を通して「役」を演ずることにより、複眼的に世界への視線を体験すれば、「見えないものが見えてくる」はずである。