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2019/1/7 住職コラム:平成最後の年、「おてらの終活」はつながりを回復できるのか~新年の所感に代えて~

明けましておめでとうございます。

毎日新聞の「日本の世論2018」では、平成の30年間に「何かを得たか」(44%)「失ったか」(33%)という質問をしている(昨年12月30日付)。得たもののトップが「家族」だが、失ったものも「家族」が一位で、その後、「心」「つながり」「思いやり」と続く。「得た」ものは対象化しやすいが、「失った」ものは主観的であり、関係論的でもある。
そう言えば、豊かさの象徴のようなアメリカでも、平均寿命が日本より下がったとのニュースがあった。若い世代の薬物死や自殺が増加しているからだが、その要因も「つながりの喪失」だという。
私の場合、平成という時代には、喪失感が大きく上回る。もちろん應典院をはじめ「得た」ものもあるが、個人の経験をはるかに超えて時代が失ったものは莫大ですらある。1.17、3.11のようなカタストロフィ、オウムによる安定や信頼の瓦解、あるいは無縁社会、格差社会といった負のエートス、個人的には父と母を相次いで看取ったし、私の夢想や希望も加齢とともに減退しつつある。
しかし、世間で流通する大量の「つながり」という言葉も手垢にまみれて軽々しい。メディアはオーバーに言いふらすだけだし、SNSのつながりは、私には高度なフィクションのように見える。つながる身体や体温が感じられないのだ。

今年も、寺院イベントが花盛りの一年だった。若い人たちのデザイン感覚とかスピード感はすばらしいのだが、それが「集客」に終わっていてはただのケレンに過ぎない。圧倒的特異は、寺という場、時間や関係の厚みを含み込んだ「場の力」だ。そこでの出会いは、どこかの施設でのそれと明らかに異質の体験だろう。それを、どうつなぐのか。
應典院は平成の申し子のようなお寺だったかもしれない。平成9年の再建以来、バブル崩壊、失われた10年、自分探し、無縁と孤立等々、時代が喪失してきたものにその都度応答しながら、「つながりの回復」を目指してきた。いや、はたと思うのだが、本当にそうだったろうか。一次的な出会いと、持続的な関係とはまるで異質のものだ。20年絶えず人は集い続けたが、個々の「つながり」づくりにどれほどコミットできたか、振り返れば甚だ心もとない。

同じく毎日新聞の「記者の目」(昨年12月28日付)では「激変する(平成の)葬儀と墓」を取り上げている。平成期を、無縁仏、直葬、永代供養墓、単身世帯急増など「死にひとりで直面する時代」と解きながら、こうまとめている。

「墓はその時代の社会を映す鏡、と言われる(中略)戦後、昭和期の後半に、地域や家族の関与に<不満>を感じて解体して来たのは私たちである。頼る人のいない<不安>はある。それでももう、以前のような地域や家族のあり方に戻れない。家族があってもなくても、<ひとり>を前提とした新しい<つながり>を私たちは必要としているのだ」

新しくはない内容だが、平成30年の間にニッポンの葬送がどこへ駆け出しているか、つまびらかにしている。言及はないが、個人化や消費化が進み、伝統仏教の再編が加速したことも平成のメルクマールとなるだろう。
「つながり」で考えてみれば、よくわかる。地縁、血縁、社縁からも分断された「ひとり」が誰とどう「つながり」、人生を終えるのかという最大のアポリアである。また死後、なお残された人々と「つながって」いくのか、そこには必ず両者を「つなぐ」仲介者が必要となる。應典院21年目の新たな出発点がそこにある。
去年、應典院で終活を扱ってみて、その「つながり」の触媒として、お葬式やお墓が新たなポテンシャルを発揮する可能性を感じている。永代供養墓だけではない。一年間取り組んだ終活イベントを通して、(ここにも何度か書いてきたが)お寺の持つスタンダードが意味を放つ時を迎えている、と手応えを感じている。
葬送とは本来喪失を悲しみ、悼み、また癒す営みだが、そこから生じる様々な「つながり」は私ごとを超えて、「みんなごと」として、社会(福祉)レベルの需要を増していく。関係性を失い、新たな関係性を得ていくのだ。それをコミュニティデザインといっていいし、ソーシャル・ネットワークといってもいい。「ひとりを前提にしたつながり」をはぐくむべきは、寺院であり僧侶の私たちの役割なのだろう。

今年、我々の終活プロジェクトも第2フェーズを迎える。地域の社会事業家と連携して、安心のプラットフォームを構築する。そして、何より学ぶことだ。地域全体が死生観を深めることで、死後のビジョンも共有して、互いを支えあう共同体を目指したい。
元来仏教でいう「無縁」とは、差別のない絶対平等の仏の境地である(無縁大慈悲)。至ることはできずとも、それを遠くに見据えながら走っていこう。そう思っている。

 

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)