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2018/11/23 住職コラム:ローカルの結節点としてのお墓

井上理津子さんの新刊「いまどきの納骨堂」には、自動搬送式高層納骨堂がたくさん紹介されている。現在首都圏には建設中も含め、約30ヶ所あるらしく、それが全て完売すると12万から15万のお骨を収納、その数は明治以来伝統のある都立霊園8ケ所の約半数に及ぶというから驚きだ。

ひと昔前は「外墓か室内墓か」という選択があったし、「あんな立体駐車場みたい所はいやだ」という迷いもあった。それが富裕層ほど最初から決め打ちで搬送式を求めるというから、埋葬の価値観も変わってきたのだろう。「土に還って、自然に戻る」なんてストーリーが通じなくなっている。
一部宗教法人とディベロッパーが手を組んで、量的拡張を図る様はうんざりするが(福井の失敗例が興味深い)、それでもニーズがあるのだから私がとやかく言う筋合いはない。課題は、つまりそういう物量主義に対し、「対抗」しようのないわれわれの欠落にあるのではないか。
いや、高級路線でいこうとか、もっとニーズをつかめといっているのではない。「近くで早くて便利」だけが選択価値なら、どうせ首都圏でしか成り立たない。対抗すべきは、数量ではなく、もっと文化レベル的なものではないか。

墓も葬儀も寺も、堂々たるローカル文化である。寺と人々(死者も)が墓を介して作り上げてきた豊穣の地域文化である。だが、だから昔ながらの伝統を固持しているだけでは、搬送式の論理(早くて便利)には抗えない。それとは全く異質の、「新しい物語」が必要なのだ。奇抜なデザインのお墓が、その回答にはならないことは確かだ。

自動搬送式納骨堂には、土がない。お骨は物流倉庫のような空間をずっと回り続けて、土に帰還することがない。
そもそも「埋葬」とは「土中に埋める」意なのだが、現実はすでに定義を超えている。首都圏では計画中も含め30を超える同様のお骨マンションが林立して、何十万というお骨が宙をくるくると回っている。

土とはローカルである。地縁という言葉は廃れたが、確かに土の上に家も人も立っている。大地から人は生まれ、生きて、また還っていく。そういう循環の母体が土であろう。だから、墓地とは、はなつかしい聖地なのだ。

お寺もそうではないか。固有にローカル(地域)に根ざし、歴史を刻み、独自の文化を形成してきたのであって、それにこだわらず、立地と利便性だけで図るなら、大手スーパーの出店と変わりがない。
しかし、問題は、自分主義の人々にとって、いやひょっとしてお寺も、ローカルにこだわらなくなっているということなのかもしれない。土に根ざしたコミュニティを見失い、ネット上で仮想の関係に遊ぶ。家のお墓はもうダメだから、今度は永代供養で、と急にカタチを変えたところで、ローカルなき供養は、(私が思うに)道理が伴わない。

人口減少と孤立の時代、ますますローカルは逼迫している。首都圏発のグローバリズムが全国均一化する。だからこそ、永代供養墓を物量に任せるのではなく、新しいローカルの結節点として見直すことではないか。寺はローカル最後の拠点なのだ。

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)