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2019/5/22 インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」第4回:稲田瑞規(前編)

インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」を展開しています。本連載は、さまざまにご活躍されている仏教者の方々に、社会や仏教の未来に対するビジョンを伺うもの。第4回は、稲田瑞規さん(浄土宗称名寺副住職 ※家出中)にご登場いただきます。前編では独自の活動に行き着いた経緯、僧侶に対する思いなどについて伺いました。(聞き手:秋田光軌)。

「煩悩クリエイター」を名乗るまで

――本日はお話を伺えることを楽しみにして来ました。よろしくお願いいたします。稲田さんのTwitterアカウントを開くと、アフロの髪で「煩悩クリエイター」を名乗られていて、一度見たら忘れられないインパクトがあります。おそらく僧侶として前代未聞の活動をされていると思いますが、今のスタイルに落ち着かれた経緯を教えていただけますか。2019-06-2

稲田 浄土宗のお寺に生まれたけど、年に1回行事を手伝うくらいで、特に仏教的な教育があったわけでもなく、普通の家の子と同じように育てられました。兄がいるんですけど「寺は継がない」って小学生の時から言っていて、それを聞いた両親も「きっとあなたのほうがお坊さんに向いている。優しいし人当たりもいいし」って言いだして。あまり将来を深く考えるタイプじゃなかったんで、「いいよ、僕が僧侶になるよ」って。

そもそも、うちの寺は小さくて兼業しないと食っていけないので、僕もサラリーマンと兼業が前提だったんです。就活をして、17年4月から東京で働くことが決まってました。それまで僕にとって僧侶って辛気臭くてダサい存在だったんですよ。それがある日「フリースタイルな僧侶たち」のフリーマガジンを目にして、チャレンジしているかっこいい僧侶もいるんだ、僧侶になったらダサくなるわけじゃないって分かって。何者であるかを気にするんじゃなくて、何か行動することがかっこいいんだと気がつきました。

当時は大学院で著作権法を研究していて、あとは修士論文を書いて卒業するだけだったんですけど、M2の夏くらいから「このまま論文を書いてていいのか?」って悩みだして。内定をいただいたのが東京のWEBメディア会社だったんで、同期がすごく面白い奴が多かったんですよ。それに比べて、「俺は普通すぎるんじゃないか」って焦ってきて(笑)。この半年間で巻き返さないと!と思って、単位を全て取得した状態で中退しました。

中退からの半年間で、解き放たれたかのように色々やりました。最初はうちのお寺、地元の町を盛り上げたいと思って、「寺motto-ジモット-」というウェブサイトを制作して、地元とお寺の情報を並べて記事を書いたりしてました。地元は閉塞感もあって、好きになるポイントが見つけづらい田舎。でも、外部から刺激を与えたりお祭りを持ち込んだら、日常の風景の見え方が変わってくるんじゃないかなと。そして、僕自身がこのまちで僧侶として生きていくんだっていうのをストーリーで表現したくて、映像で切り取ってみたら面白いかと思って、スタッフに一週間お寺に住み込んでもらって17年3月に映画「DOPE寺」を撮影しました。他にも、インドに一か月行ったり、インターネット寺院・彼岸寺に「ブッダの教えを学んだ人工知能が誕生したとき仏教の未来はどうなるか?」という記事を寄稿したりして。

――この時点で精力的に色々されていますが、東京で働きはじめるまでが第一期の活動とすると、手ごたえはいかがでしたか。

稲田 どれもけっこう評判が良くて、すごく嬉しかったです。彼岸寺に寄稿した記事もバズって(注:「バズる」とは「ネット上で爆発的に話題になる」の意)、彼岸寺のサーバーが落ちる事件もあったり(笑)「こういうの、けっこう得意かも」って、承認みたいなものがコンテンツ制作によってはじめて生まれた瞬間でした。それまでは得意分野が何もないってかんじで、プラっと生きてたんですけど。

それで4月から東京で会社勤めをはじめて、毎日10時~20時くらいまではたらいてました。その裏で、並行して個人ライターみたいなこともはじめて、同期と一緒にウェブマガジンをやって。文章を書きつづけながら、たまには実家に帰って寺の行事を手伝ったり、その一環で「DOPE寺」の上映も含めて、17年10月に「TE LA LAND -称名寺 御忌会法要 お寺ミュージカル映画祭-」っていうイベントをしたんですね。それもバズって、なんとテレビにも取材してもらって。そんなかんじでほぼ寝てなかったです。

サラリーマン生活には苦しみもあって、コンテンツをつくりたくて入社したのですが、ウェブ広告のクリック料金を調整する仕事を任されてました。まぁ、今考えれば仕事ってそういうものなんですけど。でも、思い通りにいかない苦しみを味わっていた分、やりたいことを裏でウェブマガジンにつぎ込んでいたんですね。孤独をテーマに文章を描こうと思ったら、どうしても性体験とか、性に関する悩みが湧き出てくる。そういう記事を書いていた頃にバズりだしました。だんだん外から仕事を発注される立場になってきて、ある時友だちから「お前やったら一人でいけるよ」って言われて。じゃあそうしよう!って、友だちに言われた次の日に会社に辞表を出しました(笑)。親にもすぐに会社辞めるって電話して。

――決断力がすごいです(笑)。そうして、18年4月から今のようなかたちで活動されているわけですね。

稲田 ちょうど今1年経ったタイミングで、じぶんの感性もわかってきて、より言語化できるようになってきました。僕はある程度分かりやすさを大事にしつつ、仏教の思想の深さを伝えたいと思っていて。あまりお金にはなってないですけど、書籍の依頼がきたり実績もできているので、とりあえずはこれを続けてこうかと。

収入源としては全て文章を書く仕事ですね。じぶんで書くのと、たまにインタビューなどの編集でお金をもらっています。実家のお寺は小さいので給料出てないし、書くことで出版社からお布施をもらっている状態です。あとはリアルイベントですね。失恋浄化バー「失恋供養」、煩悩浄化トークイベント「煩悩ナイト」など、色々企画しています。その場で失恋や煩悩にまつわる語りを聞いて、全員で供養しあう、みたいな。

煩悩をさらけ出せない僧侶

――他にも、就活生のための「Death Career〜終活から考える就活〜」に登壇されるなど、非常に幅広く活動をされています。それらの多彩な活動を貫いている思いとしては、仏教のどういう深さを伝えたいと思っていらっしゃるのでしょうか。

稲田 仏教の魅力といったら、思想自体が本当にすごいですよね。最初は疑っていたんですけど、ブッダが説いた内容って、この世の本質を説いているなぁと思う感覚があって。僕自身、じぶんがけっこう苦しいんですよ。「こうあらねばならない」とか「私は○○だから」とか、そういう煩悩や執着から生まれる苦しみに対して、仏教は「私が、私が」っていう見方は幻想であって、それは思い込みだよって教えますよね。そうやって固定観念を崩し、別の見方があることを教えてくれる。「大きな物語の解体」ってよく言われますけど、「これが常識だろ」っていう物語を仏教が崩してくれて、自分を自由にしてくれる部分は僕も大好きなところです。

逆に言うと、必ずしも仏教自体が伝わる必要もないと思っていて、たとえばBUMP OF CHICKEN(注:日本の人気ロックバンド)は仏教的なことを歌ってくれていると思うんです。それをライブで何十万人の前で歌っていて、もうこれでいいじゃんって(笑)。極論ですけど、もし仏教の考え方がちゃんと世の中に伝わって、人々の苦しみが和らいでいる状態が達成していれば、僧侶もお寺も必要ないっていうのが達した結論ですね。そういう意味でも思想部分を伝えていきたくて、BUMP OF CHICKENを仏教で読み解く記事を書いたりしています。

――仏教だと、基本的には「煩悩を捨てましょう、手放しましょう」っていうことになりますけど、一方で稲田さんは「煩悩」に大変重きを置かれていますよね。

稲田 煩悩って汚れていて苦しみを生み出すものですけど、「煩悩即菩提」ってことばがあるように、仏教って汚いからダメだとも言わないんですよね。自由な境地に至ろうと思ったら、その反対である汚れた煩悩をじぶんで見つめないといけない。僧侶であるかぎり、この煩悩を見すごすことは絶対にできないんです。僕はじぶんがダメ人間だってすごく自覚していて、許されるなら永遠にNetflixを見ていたい(笑)。そういうダメな部分を公開しないかぎり、僧侶という存在に対して自分は真摯に向き合えないし、社会的信用も全く生まれないと思っています。

法話もそうですけど、お坊さんって完成形を求められますよね。法話の構造自体が「お坊さんが一方的に説く、皆が聞く」になっていて、普通にコンテンツとして退屈です。全然面白くないじゃないですか。メディアから求められるお坊さん像もそういう完成系ですけど、絶対に完成しているわけがない。完成したって言っている人はまちがいなく完成してないし、悩み続ける存在として僧侶があってほしいと思います。

あるいは現代の僧侶って一応儀礼として戒を授かっていますけど、じゃあ日常生活で実際どれだけ戒を守れているのかってことも疑問です。授かった戒と日常生活との乖離をどう捉えたらいいんだろうって悩みますけど、お坊さんから普段そんな話はなされない。

――戒のことも厳密に考えだしたら、現代社会で生きていけないかもしれない。お坊さんたちが、じぶんの中にある矛盾や煩悩をさらけ出していないわけですね。多くのお坊さんが恋愛やセックスのことで悩み苦しんでいますが、それが表に出ることはない。むしろ、出してはいけないと思われているんじゃないですか。

稲田 現実のカッコ悪い姿があるのに、それを見せない。公的な場で僧侶がセックスの話を一切してはいけないことになっているのは、僕は不誠実だと思っていて、何の躊躇もせず性の話をよくしています。さっき話した「煩悩ナイト」でも、別に煩悩って性に限定していませんけど、後半は参加者からずっと性の話が出てくるんです。最後行き着くところは猥談を話すバーみたいになる。それだけ性の悩みを話せる場所が社会になくて、皆苦しんでいても抑圧せざるをえない。そこに苦しみがあるんだったら、僧侶が向き合わないわけにはいかないだろって思うんですけど。

コンテンツ制作は日々に対する供養

――たしかに、人間にとって最も根源的なところですよね。じぶんのカッコ悪さをさらけ出してまで、仏教の魅力を伝えていきたいというモチベーションの原点は、どういうところにあるんでしょうか。

稲田 今思うとですが、「もらってきた愛に対して何か返したい」っていう気持ちが強いみたいなんです。たとえば母は僕のことを愛してくれますけど、その愛を母だけに返すんじゃなくて、他の誰かに対して何か還元したいって思いがあって。

子どもの頃からずっと一緒だった犬、アンディが死んだ時、この悲しみをどうしたらいいんだってすごく辛かったことがあります。その時、アンディがいたからこそ今の自分がいる、そしてアンディがいなくなってもこの人生で輝くんだって「死を物語る」ことをしたんです。そうしないことには別れを乗り越えられなかった。「回向」って功徳を他者に回し向けることですけど、その頃から直接アンディや母に愛を返すんじゃなくて、じぶんの身体で一度受け止めて、別の何かで社会全体に返していきたい感覚をもっています。

これは仏教者としての信念というよりも、出会ったひとやものに対する感謝でしかない。新しく何かに出会うと同時に、常に失われていくものもあるじゃないですか。時間とかはそうで、何らかのかたちで失っていくものの置き場所を変えたいという思いがあります。僕にとって出会いのなかで生まれる様々なコンテンツ制作は、過ぎ行く日々に対する供養なんだと思っています。

――他者や物事との出会いの中で生まれるコンテンツ制作が、そうした日々に対する「お返し」になっている。すばらしいですね。「開かずの段ボールを供養する」記事なども、散々笑わせておいて、ちゃんと最後には仏教のおしえが書かれていて、読者にスッと入ってくると思います。

稲田 あれ、ダサいと思ってるんですよ。最後になにか良いこと言いたくなってきて(笑)、気づきを与えたいという思いはやっぱりあります。「仏教を広めるぞ!」とは思っていないはずなのに、なぜか出てきてしまう。もしかしたら僕の芯の部分かもしれないです。ダサいけど。

(後編につづく)

撮影:オガワリナ(リンク https://twitter.com/Rinatie

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稲田瑞規
(浄土宗称名寺副住職 ※家出中)