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2019/6/28 住職コラム :簡素を極める。無償の葬儀。

去年の8月に事情のある檀信徒のための無償の葬儀を始めた。亡母豊子の遺産を基金にして、「経済的にお困りの檀信徒に限り、<お寺で><家族だけ>のお葬式を行い、当山がその費用を全額基金より拠出する」(趣意書)と述べた。もちろん申し込みが相次ぐとも思っていなかったが、先週、初めてご本人から相談を受けた。

Aさんからの電話は、病院からだった。「ガンで入院しているが、長くないかもしれない。自分の葬式のことで相談したい」。すぐ翌日病室を訪ねた。
Aさんは65歳、独身。家業を継いだが、うまく行かず廃業、今生活保護を受けている。一人いる姉家族は外へ出ているので、迷惑はかけられない。お寺で全部やっていただけるのだろうか、あらましそんな話だった。「安心して。私が約束したから。病院の人やお姉さんにも言っておいてね」。次見舞いに来るとき、何がほしいか?と訊いたら、「お寺さんに申し訳ないけど、ゼリーが食べたい」。

それから一週間、お姉さんから亡くなったと連絡が入った。あまりに早い訃報だった。東京に出張中だった私は慌ただしく帰阪して、すでに本堂に安置されたAさんと再会した。姉家族が揃って集まってきた。ゼリーを持っていくと約束したその日が、お通夜の夜だった。皆泣いた。

簡単に言えば、葬儀社は「直葬」扱いだから、余計なことはしない。打ち合わせもなし。その分、遺族とお寺の距離がぐんと縮まったように思う。こちらが司会もやる。案内をする。精進落としも会葬者対応も車の出入りもないから、すべてがお葬式だけを中心に進んでいく。潔いというべきか。それと、何というか、「お支払い」をしない遺族は、「消費者」としての立場から自由になれたのかもしれない。簡素を極めれば、本質が見えるのだろうか、私には得難い体験だった。

付記
「直葬」扱いといいながら、葬儀社は「初めてですから」と、4名も人を派遣してきた。頭が下がる。遺族の眼前で死装束をつけて、棺に納める。それ以外はご遺体搬送と安置だけ。ご遺体ケアだけに専念する葬儀社も、「おくりびと」としての矜持がはっきりと窺える。

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)