巨額の費用を投資して、立派な永代供養墓を作ったが。さっぱりご縁ができないと嘆く住職が多いそうだ。多死社会だから、家のお墓から移行する需要はあるだろうという甘い考えなのだが、それは永代供養の本質を見誤っている。永代供養墓は生前の関係性を引き出すインセティブ(誘因)であって、そのためのアプローチを工夫することでお寺の未来も変わる可能性を踏めている。
例えば、医療や看護に目を向けてみよう。
以前も書いたが、ACP(アドバンスケアプラン)は昨年厚労省が、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」として制定したものだ。地域の資源を活用して、在宅や施設における療養や看取りを促進していこうとしているのだが、シニカルに言えば、地域期待の過剰、地域幻想といえなくもない。家族や専門職以外、他人様の生き死にに関わる人(ボランティア含む)はそう多くはならないだろう。
地域のお寺の資源力が再評価されていいのではないか。お寺の「癒し」「祈り」そして「学び」は、ACPの別名「人生会議」にふさわしい。問われるのは、医療サービスについてというより、本人の死生観であり価値観に基づく意思であり、生死の哲学である。医者や看護師に決めてもらう筋合いではない。
「人生会議」とは言い換えれば医療版「終活」みたいなものだ。誰もがまず、「終末期医療・延命治療」について意思表示が必要と考えるが、「葬儀や墓」への関心もそれと並ぶほど大きい。僧侶や寺がそこにかかわる余白は大きい。より医療や看護との連携が必要となってくるのだろうし(医療看護はどんどん地域化が加速している)、何よりも対話や相談の質が変わっていくに違いない。
先日、寺院対象に「弔い委任」のセミナーを應典院で開いた。生前契約を檀信徒ケアのノウハウにしていこうという趣旨だが、4時間以上の座学に坊守さんや寺庭婦人の姿が多くあったのが印象的だった(坊守さんの方が相談上手ということなんだろうか)。参加されたお寺が永代供養墓を運営されているかどうは知らない。しかし、これからのご縁結びとは、そういった終生期全般をどうケアするのか、他者の立場に立ってサポートするという視点がない限り、永代供養墓は手のかかった「ハコモノ」に終わってしまいかねない、と思う。