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2019/12/18~19 影舞の会~演じるのでもなく、型もなく、人と人が向かい合うことから、生まれ、聞こえ、見えるもの~大阪(五)年の瀬の近き頃

<應典院寺町倶楽部協力事業>

11月に(四)が行われ、應典院でのこの会は今回で五回目になります。

若葉の色濃くなる頃から年の瀬近くなる今回まで、こうした機会、ご縁をいただき、ご参加くださった方々、関心を持ってくださった方々、ここまで導いてくださった皆さまに感謝いたします。

小春日和と木枯らしの頃に行われた(四)は、味わいのある時間となりました。きっとこうした時間があってその内に話されたこと、歳を経た方々が言葉なく相手とのやり取りの中にいる姿、時間を後にしてはなされたその方の来し方や出会った場面と言葉。それらはわたくしの中に景色として感覚として残ります。それにどんな意味があるのか、それによって何が起こるのか、とても多くのことがあるように思われて、一方で何も確かなことはなさそうです。会では場に応じての新たな試みもありました。

(五)となる今回は年末の月になります。この場所があり会に関心を持ってくださる方々がおられ、様々な面で拙いながらもこうして始めてこられた年の最後になり、また、この後の年明けから5月にかけて連続してひらかれる会の前段ともなりそうです。

應典院の一般利用が終わる5月には、公演という形で應典院という場とご参加くださった方や関心をお寄せくださった方に向けてのお礼とする会をひらかせていただこうと思っています。

前回のご案内に書いたことは変わらず、四回を経たこの影舞の会をどのようなものかと語ることはやはりできなさそうです。ただ、この時間があって起きていること、目にし耳にすること、その人がそこに居たことの記憶がどの会にもあります。その時間の前後で起きることを含め、その体験と記憶が、場とわたくしを更新させていきます。参加された方にとっての、どうでしたか?に対する感想といえるものは、問わずにその時そこに表わされたものの他は、それぞれの御胸と体感にのみあるものと思います。

これまでの(一)から(四)へと続いた会は、時に新たなことを試みながらも、同じようなことをしてきているように見えます。けれど、場の質感が大きく異なります。複数回参加してくださっている方にも、体験に異なりがあるようです。そしてそれは重なりまた新たな何かを生じさせているようです。重ねられてきた会とその外側ではなされた声や言葉や動きがこの(五)に続くものとなっていて、それらは一幕完結でありながら連続性のある幕になっているようにも思えます。

影舞は何度体験してもその度に違いのあるもので、
体験の重なりから深まるものや奥行きを増すものがあるように思います。
なので、直接お声をかけていない方にも届くよう、
今回は(一)から(四)にかけてのご案内文をほぼ変わらないもののほんの少し更新しこちらに置かせていただきます。
一読いただけましたら幸いです。

影舞 應典院(二)

人がいて、真剣な遊び。

應典院で影舞をする。
この人たちと影舞をしたいと思った。
「その影舞というものを見たい。」と言われた。
ご縁いただき、この企画を立てました。
そのことについて考えます。

應典院という場所であること、
影舞と呼ばれるもの、
このご案内の届く方々、私という人間。
経緯や要素や思ったことを
ここで簡潔に語ることができません。
ですので、これをお読みになる方が今きっと
最も疑問を持っているだろう影舞について、
少し思うところをお伝えしようと思います。

影舞と呼ばれるそれは、
様々な文脈に位置付けることができます。
真剣な遊び、
人との関わりそのもの、その学び、
一つの民衆芸能。

ですが、そのものを説明することは
困難なものです。
それは、私がある時言われた
「影舞というものがあるわけじゃないんだよ」
ということと関係しているように思います。
影舞は動きであると言えるかもしれません。

ここにあらわれる動きは、
組になった二人が向かい合い、
二人の指先と指先がその間に
モンシロチョウを挟むように
潰さぬよう飛んでいかぬような加減で触れて、
始まります。

そこからどのような動きになるかは
その二人にもわかりません。
その時それぞれに起きているのは
どんなことでしょうか。
二人の間には何が生まれているのでしょうか。
あなたとわたしとあいだ、なくなる区別。
それは本当だろうか。

そこに「表現」はないようです。
それを見る人には、何がどのように見え、
聞こえてえているでしょうか。
聞き覚えのある音楽を合わせた時、
場所が古い民家であった時、
舞い手が知っている人だった時、
桜の舞う下での時。

寿ぎの時、弔いの時、祭りの時、節目の時。
ただ思い立った時。
たまたま向かい合うことになった二人。
たまたま観ることになった人。
二人に、観る人がいればその人に、その間に、
何が起き、聞こえ、見えているでしょうか。

このようなもので、見ることはもちろん、
踊りや舞台などの経験がなくても
身体に不自由があっても誰もができるものです。
よろしければこの場をご一緒しましょう。

ご縁ありましたら、お会いできることを
楽しみにしています。

場をひらくことの畏れと楽しみ。
私にとって、円坐、影舞、未二観は、
人と一緒にいる、
どんな人とでも一緒にいることの実践であり、
自由であること、
人がその人として居られるための試みであり、
聴く人、聴こうとする人が
世の中に増えたらいいという思いからの
学びと遊びと時間の分かち合いです。
そうあれば、世界は面白いから。

主催:音惟(おとい)
場をひらくこと、ひらいておくこと、
聴く/聴こうとすること、人といること。
まだまだその駆け出し。
心の中にはロックとパンクを。
この場も、自らの道行きも、
これからどうなるかわかりません。
それでも、引き受けていくこと。

円坐と未二観と影舞を体験させてくれた
橋本久仁彦さん、その学びを深めてくれた
田中聰さん、松岡弘子さん、先日解散した
fence worksの皆さん、それらの学びへ
導いてくれ共にした皆さんにお礼申し上げます。

日時

2019年

12月18日(水) 18:30~21:30
12月19日(木) 18:30~21:30

※二日間の会です。二日目のみの参加は不可。

会場

浄土宗應典院 二階 気づきの広場

定員

15名程度

料金

お金のご寄付(0~∞)、物、事、何れでも時間の間隔があっても構いません。

お申込先

enza.otoi@gmail.com

お問い合わせ先

enza.otoi@gmail.com

詳細HP

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