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2020/9/7 住職コラム :先代七回忌を迎えて「聴く」ということ。

同じ「聞く」と「聴く」でも、意味は異なります。「聞く」は、耳で音や声を感じる、物理的聞こえてくるのであり、「聴く」は意識的に、全身を向けて聴かなければ聴こえてこないような態度を言います。よく「傾聴」と言いますが、容易なものではありません。

僧侶仲間で、自死を考えてしまう人の電話相談をしている人がいます。あるいはガン患者さんのベッドサイドで、つぶやきを聴いている人がいる。私も経験がありますが、多くは理路や筋道はありません。ことばの深い森を、話者に導かれるような感覚です。

私が生涯もっとも傾聴に尽くしたのは、6年前に亡くした父の枕元でした。最後の10日間をホスピスで過ごしたのですが、緩和はしてくれるもの、父はほとんど混濁状態で、家族とも意思疎通は叶いませんでした。
しかし、ホスピスのナースは巡回のたびに、「呼びかけてあげてください。お名前を呼んであげてください。聞こえていますから」と繰り返します。
半信半疑で毎日くりかえし父を呼んでいると、ほとんど呻き声しか返ってこないが、何かを発する「気」のようなものを感じることがありました。何を言っているのか意味はわからない。意味を超えているが、しかし親子にしか伝わらない何かに私は反応していました。「たましいの言葉」といえるようなものなのかもしれません。

現代は、何でも発信ばやりです。SNS上では、ぼくは、私は、と皆が主張する。言葉数ははるかに多くなりました。また情報量や速度もよくなったかもしれないが、しかし反面、私たちはそれらの言葉ひとつにどれほど真意を聴き取っているかといえば心もとない限りです。電子上を言葉は上滑り、消費され、たちまち忘れ去られていないでしょうか。

浄土宗のご本尊阿弥陀如来とは、「聴く」仏です。耳朶が大きいのは、聞き逃さないため。仏としての約束のもっとも核心となるものは、「口に念仏唱えれば、必ず救う」というご本願です。だから、どんなささやかな声でもか細い声も、仏は決して聴き逃さない。いや、願いを持つもの、救われたいと思うもの、みな受け止めてくださるのです。

そう思うと、父の声が聴こえた、というのはいささか不遜なのかもしれません。念仏者として生きた父は十分救われたのであって、言い残したいことなど何もなかったのだと。私もまた、父とともに大事なものを仏に聴いていただいた。7回忌を迎えて、そんな気がしてならないのです。

平成26年9月12日遷化 大蓮寺第28世應蓮社正僧正貫誉心阿教道光茂大和尚 7回忌

南無阿弥陀仏。

 

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)