イメージ画像

2021/8/20【住職ブログ】耐える夏。棚経を終えて思うこと

日本の8月から夏の風物が消えた。ひたすら耐える日々が続く。多くの檀信徒の家々を棚経で巡りながら、そう感じた。

6日から始まったので、前半は生命を脅かすような熱中症に怯え、12日から後半は、全土を覆った線状降水帯による強雨に追われた。そして通奏低音として胸中を痛めるのは、コロナへの不安である。去年はまだ「この夏一度の我慢」という、区切りが見えていたと思う。高齢者たちの口から溢れるのは、終わりの見えないコロナへの慄きである。

 「すっかり外に出ることなくなって、家に中にいると体力も気力も落ちます」
 「住職さんとお話するのが1週間ぶり。誰とも話さなくなって、一日中オリンピック見てます」

そんな声をあちこちで聞いた。ワクチン接種と、本当の安心感とは別物なのだ。

今回の棚経のキャンセル率は14%、去年の22%から比べると取り戻しているが、それでも「もうお迎えするのがしんどくて」というような声があると申し訳なく思う。僧侶という賓客(と思ってくれている)をもてなすことに体力を消耗するのだろう。
同様に、ぶっ倒れ得るような酷暑の中、お寺参りしてくれというのも気が引ける。土砂降りの雨の中、お墓から逃げるように帰っていった一家たち。一体今の夏のお盆が、季節感として適切なのかどうか、そう疑いたくなる。ㅤ

「個別最適化」をうたって、檀信徒に棚経以外の選択を選ばせているお寺もある。わざわざ家に招いて、準備や接遇に気を使わずとも、本堂でご回向もできるし、オンラインだって可能なのだ。棚経は夏の伝統行事、なつかしいご先祖さま、みたいな切口上が実は押し付けになっていないか。十分なコミュニケーションに努めもせずに、お布施だけ「集金」に回っているようなことにはなっていないか。そう自問する。

耐える夏。コロナが明ければ、元のお盆は涼しい顔をして戻ってきてくれるのだろうか。

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)