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2022/9/30【住職ブログ】無頼のメディア。まわしよみ新聞10周年

 まわしよみ新聞は、2012年應典院で誕生した。東日本大震災の翌年である。日本人が無常とか刹那を察し、コミュニティへの危機や関心を高めた頃だ。営々と築いてきた共同体がいとも容易く崩壊し、どう再建していくのかも重大な課題であったが、一番心を向けたのが眼前から喪われた無数の死者との関係をどう取り結ぶのか、であった。その一つの回路として、まわしよみ新聞が生まれた意味は大きい。
 今日、まわしよみ新聞10周年の集いで、創始者の陸奥賢さんが、全国いろんな会場で実施するが、「お寺との相性が一番いい」といったのは腑に落ちる。というか、それがまわしよみ新聞が「霊性のワークショップ」(陸奥さん)である所以であろう。新聞教育の手法にだけ陥ってはならないとも思う。
 もう一つまわしよみ新聞が10年続いたわけは、拠点を持たず、定着しないことを貫いたからだ。経験的に私は知っているが、場は長く続くほど硬直していく。お馴染みさんという妙なヌシが現れて自由度が損なわれる。私は25年間、幾度となく場をつくっては壊してきたが、それは場を守る唯一の法則だからだ。
 まわしよみ新聞は特定の拠点を持たない。絶えず落ち着かない。陸奥さんが全国各地を流離うように、この新聞はあり方自体がノマド(漂泊者)なのだ。無頼のメディアというにふさわしい。
 対話者のイキのいい僧侶が陸奥さんと3名並んだ。何で10周年でお坊さんなのか、まわしよみ新聞がそもそも宗教性のメディアなのだということが語らいからよくわかった。
 また本当に久しぶりにこういう場に再会した。声が空気に響き、気づきや発見や納得が腹に落ちるという感覚は、私にとって本当に愉悦であった。延々4時間を並走した参加者の知力・体力にも感心する。
オンラインからそろそろ卒業しよう。ゆっくりでいいから、本当の場の再生に向けて歩き出そう。そう願う。