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【開催報告】沖田都光:「尼さんに聴く 第2回 ゲスト:中田文花さん」を開催しました。

去る2022年12月20日に「尼さんに聴く」第2回を開催しました。ゲストに、華厳宗僧侶・日本画家の中田文花さんにお越しいただきました。当日の様子を、この企画の担当である應典院職員・沖田都光より報告いたします。

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今回は、中田文花さんの数奇な出逢い、まさに一代スペクタクルをお聞かせいただき、笑いも絶えず、大変和やかな時間となりました。中田さんの描かれた絵や造形の作品、過去に掲載された冊子なども展示してくださり、会場で拝見しながら過ごすことができました。お話の内容をすべて書くことはできませんが、少しでも残すことができたらと報告させていただきます。

漫画少女だった中田さんは、小さな頃から大好きな日本の古い物語や寺社仏閣(なんといっても東大寺に憧れがあったそうです)を描き続けておられました。そのような日々、まず高校生のときに薬師寺との出逢いがありました。「そんなにお寺が好きならうちでなんか描くか」と言われ、お寺の冊子にてずっと連載を続けてこられました。

東大寺への憧れはずっと続いていましたが、檀家もないお葬式もしないお墓もないお寺である東大寺と繋がるにはどうしたらよいものかと思っていたところ、のちに師僧となる狹川普文さんに絵を習うきっかけをいただき、ご縁がはじまったそうです。いろいろなお寺にスケッチへ出かけ、出逢いを広げていかれました。

大学時代に能楽師の中田弘美さんと出逢いご結婚、息子さんをご出産。おばあさまのお世話も重なり、絵の勉強との両立は辛いものでしたが、そんななかでも院展で入選をされたそうです。そしてお知り合いから教えてもらった「9つまでは子育てに専念した方がいい」という言葉を守り、いつかお寺への復帰を願いながら、能楽師の子役を支えていかれました。その息子さんも26歳で道成寺を披(ひら)き、一人前として歩まれているそうです。

息子さんが10歳になったのをきっかけに、また中田さんとお寺との出逢いは加速していきます。在家からでも得度ができると知った中田さんは、すぐに東大寺へ飛び込み得度、尼僧になられました。2泊3日で行われる厳かな式は、夜の静まったなかの鐘の音に象徴されるように、素晴らしい空気に包まれていたそうです。「南都袈裟」をいただき、その重みを今もずっと大切にされていることが中田さんの語りから伝わってきました。

それからずっと興味のあった「雅楽(竜笛)」を習い始め、その先生がじつは浄土宗知恩院の方であったそうです。そこからご縁が紡がれ「そんなにお寺が好きならうちでなんか描くか」と知恩院の冊子にて連載がはじまります。大蓮寺應典院のある浄土宗大阪教区でも、中田さんの描かれたポスターがたくさんの浄土宗寺院の山門に貼り出されています。それがご縁で新聞記事に取り上げられたり、テレビ番組「となりの人間国宝」にもご出演されたそうなのですが、それを見た親類やお知り合いからは「尼僧になるなんて、なんか悪いことでもあったんか?」と口をそろえて言われ、中田さんは自分の感覚とのギャップに驚かれたそうです。

知恩院の法要の様子を見られた中田さんは、その所作や法衣の美しさと優雅さに魅せられたと熱く語ってくださいました。さらにそこでお経を耳にしたとき「あれ?私これ知ってる」と気づかれました。子どもの頃からご実家にきていたお坊さんのお経だったのです。慌てて実家に確認すると、なんとご実家は浄土宗のお檀家さんだったそうです。年齢を重ねたうえでの阿弥陀様との思わぬ再会に嬉しさが込み上げたと言われていました。また、東大寺で学んだ仏のご加護との重なりにも気づかれたと言われました。

「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という」
「いかに死ぬかはいかに生きるか」
そのような言葉が頭を駆け巡ったそうです。

さらに、中田さんが開かれた、知恩院和順会館での個展を見ておられた方をご縁に、四天王寺の雅楽会ともご縁が繋がり、それがきっかけで「そんなにお寺が好きならうちでなんか描くか」と今度は四天王寺の冊子にて連載がはじまり、今も発行されています。

應典院内にある創教出版からも画集を出されるというご縁もあり、中田さんの人生は、無数に広がる美しい線のように、人と人、人と場所、そして人と仏様を紡いでいかれているようだと感じました。そこには「ご縁」としか言いようのない不思議な力の働きを感じざるを得ません。
これからも中田さんの描かれる作品たちとともに、仏様のご縁が広がっていき、まわりを癒し守ってくれますように。

次回は2月21日には「尼さんに聴く 第3回ゲスト:唐渓悦子さん」を開催します。ぜひお越しくださいませ。