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【開催報告】 中平了悟:「僧侶として葬儀の理念を再考する ~碑文谷創さんのお話をきく会in関西を開催して」

去る10月20日、「碑文谷創さんのお話をきく会in関西~次世代に心ある弔いを繋げるためには?~」を開催しました。
実行委員メンバーで唯一僧侶として参加してくださった中平了悟さん(浄土真宗本願寺派西正寺住職)から、当日のレポートを寄稿いただきました。
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10月20日、碑文谷創さんのお話を聞く会が開催された。4時間という長丁場。しかし、ひとたび碑文谷さんのお話に耳を傾けると、その語り口に引き込まれた。聞き入り、気がつけばその4時間が過ぎていたという感覚だった。それは碑文谷さんが語られる言葉を通して、僧侶としての自らのふるまいと心がけを省みさせられる時間でもあったように思う。

「省みさせられる時間」といっても、それは僧侶として葬送のお勤めをしてきたことについて、恥じ入って小さくなってしまうよう感覚ではなかった。むしろ、激励と期待を感じ、背中を押されているような思いがするものであった。
会場にいた数人の知人の僧侶たちからも、同様の感想が聞かれた。おそらく会場にいた多くの僧侶も、僧侶以外の方たちも同様の感覚だったのではないだろうか。

いま、当日を振り返るべく、手元に書き留めたノートを振り返っている。

碑文谷さんは、理念を持つこと、葬送の歴史を学びそれ踏まえることの重要性を語られていた。その言葉からは、蓄えられた知識と認識の奥深さがうかがわれ、葬儀・葬送に向けられた熱く、重い期待が伝わってくる。現状への疑問・課題が鋭く、かつ明確に提示されていた。碑文谷さんの語られた言葉の一部を挙げて、振り返っておきたい。

「葬送は人の生死にかかわる。理念不在ならば無慚である。葬送に理念抜きで関わってはいけない。」
「(四十九日という期間について)喪があるからそれを勤めるのではなく、本来はそのくらいの期間、痛みがあるということではないか。」
「葬儀をするのに「亡くなった人」がどのような人だったかを知ろうとしないのはおかしい」
「現状の僧侶の読経はBGMになってしまっている。それで本当に「葬儀」としての機能を果たしているのか。」
「僧侶・葬祭業、葬祭ディレクターの資格は、「喪主のいない葬儀」、遺族・参列者が一人もいなかったとしても、自分一人であっても、亡くなった人を弔うことができるかどうかである。」

碑文谷さんが語られた言葉には、葬送が人の尊厳に深くかかわるものであり、葬送に携わる者には故人を送る中で立ち上がる遺族の感情に向き合う姿勢が大切であることが示されていた。そして、それらが果たされていない形骸化した葬送については厳しい指摘がなされていた。

この会の数日後、葬儀をお勤めする機会があった。その式場へ向かう道筋から葬儀を勤める中でも、絶えず頭の中に浮かび続けていた碑文谷さんの言葉があった。

「一人ひとりの命はかけがえなく重いものだ。もし葬儀で、宗教が大切だとするならば、それは、一人一人の命は、絶対的に大切なものだということを宣言してくれているということではないか」

これは当日「葬送にかかわる人間にとって忘れてはならないことはなにか」という問いに対する碑文谷さんの言葉である。そのご葬儀の中、参列くださったみなさんとともに、その故人の命の重み―碑文谷さんがおっしゃった「絶対的に大切なものだ」ということ―を感じられる葬儀であったかどうかを問い直し続けずにはいられなかった。おのずと碑文谷さんからいただいた宿題に応えるような気持ちが生じていたのだろう。

いままでも一つ一つを大切におつとめしてきたつもりであるが、あらためて、碑文谷さんから投げかけられた言葉の重みを葬儀の現場に身を置きながら振り返っている。

碑文谷創さんがこれまで見つめられてきた葬送に対するまなざしにあの場で紡がれた言葉を通して触れられたこと、そして碑文谷創という人物の存在に触れられたことは、あの場にいたものにとって、これから携わるそれぞれの葬儀の現場でのまなざしやふるまいに少なくない影響をもたらすものであったのではないだろうか。

この会によって現状の葬儀についての課題感を共有し、ある種の想いを同じくするひとのつながりも生まれたように感じている。課題を共有する人たちのつながりが生まれ、それが次なる動きにつながっていくことで、「葬送」の理念・あり方を考える動きがまた広がっていくことにきっとなるだろう。このつながりを大事にして、次なる動きにつなげていきたい。

 

浄土真宗本願寺派西正寺住職
中平了悟