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【レビュー】米田祐子 あそびの精舎訪問記:あそびが解き放つ生命のエネルギー 

あそびの精舎訪問記:あそびが解き放つ生命のエネルギー

東京で「子どもから学ぶリーダーシップ」のプログラムを構想中の米田祐子さんがあそびの精舎を訪問されました。当日はパドマエデュケーションセンターのオープン記念である「子どもいろいろ探究フェス」を開催の当日で、時間をかけて、すべてのプログラムに参加され、各プログラムについて、詳細なレビューを書いてくださったので、ここに公開させてもらいます。


2024年4月に應典院のあそびの精舎構想が始動した。「葬式をしない寺」として、人の心に寄り添う本来のお寺の営みに立ち戻り、地域の暮らしに根差したライフコモンズの在り方を探ってきた應典院の新たな挑戦である。共に遊ぶことで、世代を超えて、生命の繋がりに気づき、生きることを見つめ直すというその構想に心打たれて、3月23日に開催されたオープン記念プログラム「子どもいろいろ探究フェス」に参加した。

瀟洒な洋風の應典院の建物は、本堂の脇、壁を隔ててすぐ通りに隣接するところにたたずむ。奥の高所には、墓地が広がり、この地のご先祖様たちが見守ってくれているようだった。入り口のホールの白い床には、鮮やかな色彩が、躍動感いっぱいに散っており、筆遣いの温かさと床から飛び跳ねてきそうな勢いを感じる。立地にも建築にも、あそびの精舎のコンセプトが体現されているようだった。

親子の参加者は、小グループに分かれて、5つの探究プログラムを回る。それぞれのプログラムを主催しているのは、主に地域の若者グループから成る探究パートナー。参加した親にとっては、一度に子どもに様々な体験をさせられることが魅力のようだった。それ以上に、幼児から小学生までの子どもにとって、あそびは、生命の発現であるようだった。

当日の5つの探究プログラムを通して、「あそび」について考えてみる。

空間と空気感に触発されるエネルギー

受付の後に通された絨毯敷きの円形の広間では、子どもたちが弾けるようなエネルギーで走り回る。そんな子どもたちを見守る母親のひとりと「子どもって、どうして広いスペースに来ると途端に走り出すのでしょうね」と言葉を交わす。広い空間は、人間の本能の奥深くで何かを解き放つのかもしれない。「何かが始まる」という場に漂うわくわく感が、子どもたちの足をさらに軽やかにする。

 

あそびが培う身体感覚の豊かさ「日本と海外の伝承遊びで体幹作り」

20人ほどの親子が輪になって座り、類似した日米のあそびを体験した。中腰の姿勢は体幹を作るそうだ。まず日本ではおなじみのハンカチ落とし。大人は子どもが気づくように手に触れるように落としてやる。小さい子どもは、自分がまたお母さんの隣に座れるように、誰の背後にハンカチを落とすか選ぶ。背後に落とされたハンカチを感知すると、ぱっと立ち上がり、飛び出すように走り出す。一生懸命に走る子どもに「がんばれ、がんばれ」と声がかかると、スピードに拍車がかかる。小学生になると、大人でも追いつかれそうな勢いだ。ハンカチを落とした子どもが、自分より大きな子どもに追いつかれずに1周して座ることができるか。子どもも大人も、我を忘れて興奮した声を上げ、場の一体感が生まれる。

次に米国の“Duck & Goose (アヒルとガチョウ)”。子どもたちは、DuckとGooseの写真を観ながら、二種類の鳥の違いを探す。その上で、ゲームの説明。鬼は、静かにハンカチを落とす代わりに、背後から座る人の肩を叩いて、“Duck”または“Goose”と囁き、”Goose“と言われた人が次の鬼になる。ルールはほぼ同じだが、米国版では、ハンカチを落としてから感知されるまでの間がなく、一層、瞬発力と足の速さが求められる。ハンカチ落としでは、背後の気配に意識を集中するが、Duck & Gooseでは、耳を欹てて音に敏感になる。それぞれのあそびは、体幹以外の身体感覚も鍛錬するように設計されている。

 

子どもから学ぶ創造力「紙皿大変身!~自然の枝葉や実で工作しよう~」

主宰するのは、キャンプを主に行う自然学校のスタッフ。キャンプが大好きという女性二人。紙皿を台紙に、山から集めてきた豊富な素材を使って工作する。好奇心をもって、子どもたちは、机に盛られた自然の素材を眺め、触って選ぶ。「同じ形が欲しい」という子どもに対して「うーん、自然のものだから同じ形はないなあ」。それも学びの過程。工作で活用するのは、触覚や手先の器用さだけではない。使いやすい長さに枝を折ったり葉をちぎったりするには、握力も試される。様々な木の葉や枝を組み合わせて「何に見えるかな」と想像力を働かせる。紙皿の上で素材をいじりながら、自分の思考をそのまま言葉にしながら、形を作っていく子どももいれば、ちょっと工作しては、他のことをしに席を立ち、また戻って断続的に作り上げていく子どももいる。弟の工作を助けていたお兄ちゃんは、ふと何か閃いたように自分でも工作を始める。車好きの男の子は、紙皿に枝葉で軽トラックを作り、仕上げにピンクの色を塗る。色のセンスや視覚も培われる。すると、周囲の子どもも影響されて、紙皿を塗りつぶし始める。子どもの創作の過程は、創作物以上に個性的で面白い。

創作の場には、様々な相互作用が働いている。子どもは、思い思いに手を動かしつつ見守ってくれている大人や周囲の子どもとの関わりのなかで、作品を仕上げていく。「できたよ」と誇らしげに親に完成品を見せに行き、親を子どもの世界観に巻き込んで行く。ある母親は、子どもの作品を見て、「こんなことできるんだ」と気づきになったという。お片付けまで含めて、工作の工程。今度は大人の意識が向く方向に子どもが巻き込まれていく。

 

身体技法で培う心の持ち方「合気道の動きを入れた体操と呼吸法に挑戦!」

合気道衣と袴姿の女性講師が迎えてくれる。それだけでも、背筋が伸びる。「合気道と空手の違いは?」と問われて、答えられる大人も子どももいない。空手は格闘技であるのに対して、合気道は、相手の力を受け止めて流す。軽く身体をほぐして、体験してみる。まず呼吸・気に意識を向ける。「えいほ」の掛け声とともに身体を動かすと、力の入り方が違う。気を入れることは、自分を強く持つことにも繋がる。だが、その強さを以て闘うのではない。相手と気を通わせて、自分に向かってくる力を受け流す。ひとつひとつ動きを分解しながら、親子のペアで体の転換を練習する。片足を軸に身体を転換する動きは、私が以前習っていたサルサの動きに似ている。「体の転換」は、子ども心にも響いたようだった。幼い子どもからは、「強くなった」「身体を守れる」という感想が聞かれた一方、「やられたらやり返す必要はない」という学びを得た小学生もあった。小学生の世界は意外に大人の世界に近いのかもしれない。子どもたちの感想から、自分が中心にある幼少期から、他者を意識し始める学童期への子どもの心の在り様の変化が垣間見れた。年齢を問わず、合気道の奥議には普遍性がある。

 

 

コミュニケーションの基本に立ち戻る「海外の人ってどんな人?留学生と対話してみよう!」

この日初対面だった子どもたちも、この頃にはすっかり仲良しになっている。ハンカチ落としでは、お母さんの隣に座ろうと画策する姿もあったが、後方に座る大人には見向きもせず、異年齢の子どもたち同士でじゃれ合っている。緩みすぎた場の空気は、張り詰めた緊張感と同じくらい、進行役の立場には、難しい局面だ。進行を担うのは、大阪に来る留学生のサポートに携わる若者グループ。前のアクテビティの興奮冷めやらぬ子どもたちと軽い会話のキャッチボールから入っていった。

Zoomの画面に、阪大の留学生だったというオーストラリア人、マレーシア人の女性2人が並ぶ。だが、大人のZoom会議のようにはいかない。子どもたちにとって、周囲の子どもたちや進行役の若い男性のリアルな存在に比べて、オンライン上の二人の女性は、まるでテレビ画面のように画像としか認識されていないようだった。進行役の男性は、そんな子どもたちと目線を合わせて、心を通わせ、その上で、子どもたちの意識をZoomの画面に導く。注意も離れやすい。アイ・コンタクトやクイズの問いかけが、子どもたちを引き戻す。本が好きという女の子が一番集中力を持続させているようだった。漠然と画面を眺めるのと、会話相手に対してチューニングインするのは、全く質の異なる意識の向け方だ。目の前の男性の介在を得て、子どもたちは「何を食べていますか?」「赤ちゃんはどうやって育つの?」「夢は?」とヴァーチャルな存在の二人に開いていく。

リアルか、オンラインか、日本語か、英語か。私たちは日々コミュニケーションの手段に終始していないだろうか。小学校に英語教育が導入されて、かえって、英語嫌いの子どもが増えてしまったという。コミュニケーションは、言葉ではない。大切なのは、相手の存在をしっかり受け止めて、繋がること。子どもとの会話は、むしろ大人にとって、コミュニケーションの基本に立ち戻る訓練になる。

音楽と静寂が調える陰陽のエネルギー「リトミック音楽&キューバの歌ってどんなの?」

音の響きは、子どもたちの発想を誘発しているようだ。「空手」から「唐揚げ」、「キューバ」から「9」。子どもの発想は、音を起点に、大人の世界のものごとの概念や分類を超えて、広がっていく。だから大人には子どもの発想が自由奔放に見えるのだろう。

人の身体には、音の波動が内在しているのではないか、と思うことがある。リズムを聴くと、自然とリズムに合わせて身体を動かしたくなる衝動が生まれる。ウォームアップのゲームは、そんな衝動を解き放つあそびだった。子どもも大人も、ピアノが弾かれている間は広いスペースいっぱいに自由に動き、音が止まったときは、どんな不自然な格好をしていても、その場で固まり、一切身動きしない。キューバ出身のピアノ奏者が、静寂の中、固まった人たちの間をゆっくり歩き、本当に動いていないか、厳しい目で検証する。彼が真剣な眼差しを向けると、子どもたちは息を殺し、小さな身体に力が入るのが感じられる。目があうと、くすっとこぼれる笑いを一生懸命こらえる子どもたち。音楽と静寂の反復が、それ自体、場に流れるリズムを生んでいる。

ピアノの音色にのって身体がほぐれたところで、今度は、リズムの伝言ゲーム。親子2チームに分かれ、キューバ人講師に倣って1チームが手足でリズムを打ち、もう1つのチームがそれを反復する。目と耳を講師や相手チームに集中させ、リズムを感覚で掴む。言葉の伝言ゲームより、リズムの伝言ゲームのほうが正確に伝わる。繰り返されるリズムは、やまびこのように耳に心地よかった。

身体がリズムに馴染んだところで、キューバの楽器であるマラカス、タンバリン、トライアングルが登場する。参加者それぞれが楽器を手に持ち、まずは音を出してみる。講師の奏すリズムに倣って、楽器で反復する。あそびのステップを踏んで楽器を手にすることで、楽器が身体の延長であることが一層強く意識された。

最後に登場したのは、ハンドパン。深い、奥行きのある音が響く。講師の周囲に子どもたちが集まり、興味津々で楽器に触れる。「内側が空洞」という発見に興奮。好奇心に導かれて、叩く角度や場所を変え、音色の深さや響き具合に耳を澄ませる。工作と同様、人とモノの触れ合いから、一期一会の音色が生み出される。

締めに、静寂の時間を参加者全員で共有した。ハンドパンの落ち着きある音の響きに身を沈ませて、ひとりひとり仰向けになって目を閉じる。ヨガのシャヴァーサナのように。瞑想の時間を「何もしない時間がよかった」と話す子もあるという。音楽と静寂の反芻が動と静のエネルギーをバランスさせて心身を調えてくれたようだった。

大人の日常にこそ、あそびを

あそびの自由さは、無意識の気持ちの縛りを解き放ってくれる。子どもに同伴する大人にとっても、あそびは、素の自分に立ち戻る機会だったのではないか。夢中になると、あるがままの自己がにじみ出る。ハンカチ落としで鬼から一目散に逃れて走る子どもへの声援の熱量に、かつて子どもだった過ぎし日の姿が重なって見える。子どもと共にあそぶことで、大人自身も普段使わないような身体感覚を活性化させられる。今も昔も変わらない伝承遊びは、世代を超えた交わりを可能とする共通言語であるだけでなく、大人を子ども時代に立ち返らせてくれる。あそびを通して、大人は、自分の中の子どもに出会いなおし、子どものようなみずみずしい感性を呼び覚ますことができる。あそびの感性を以て日常を見つめ直すと、新たな景色が開けるのではないか。

あそびは、大人も子どもも、ひとりの参加者として包み込んでくれる。大人は、子どもより一段高い位置にいなくともよく、子どもは、大人を見上げなくともよい。大人と子どもの関係性は、あそびを介すると、縦から斜めに向きが変わる。その関係性の緩みが、大人をコントロールするマインドから解き放ってくれる。その上で、素直な心を以て子どもの目線の先、指先に意識を向けると、そこには新たな発見がある。大人は、同じ方向を向きつつも、異なる関心の向き方、感じ取り方、発想の展開のさせ方をする他者である子どもに気づく。成長の過程で、世界を発見し、日々変容していく子どもに気づく。あそびが生む心のゆとりのなかで、その子のあるがままの在り様を受け止めることができる。すると、子どもは受け止めてくれる身近な大人の存在に安心感を得て、自分の世界をより広げていく。

 

あそびの中でひとりひとりが発するエネルギーは、響き合って、世代や家族を超えて人を繋ぐ。共にあそび、笑い、楽しさを分かち合うとき、そこには、立場も素性もなく、ただ人と人の繋がりがある。体験を共にしたという一体感に結ばれて、ひとりひとりの生命が輝きを放つ。本来の生命の在り様とは、そのようなものではなかったか。あそびが解き放つ生命のエネルギーに触れることを最も必要としているのは、むしろ、大人なのかもしれない。

米田祐子プロフィール

横浜市出身。主にアジア、アフリカで、母子保健、栄養、教育、子どもの保護、子ども・若者・女性のエンパワメント、現地市民団体の組織開発などの事業を企画運営した。帰国後は、子どもの貧困削減、ひとり親就労支援、市民団体間のネットワーク運営に携わってきた。親が、出産を契機に、乳幼児から人間の本質を学び、共に生かし合うリーダーシップを探求する「子どもから学ぶリーダーシップ」プログラムを構想中。