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2024/4/14【住職ブログ】死生観を練り始める入口へ

週刊東洋経済が、お墓の特集を組んでいる。

経済誌が好んで葬儀や墓を特集するのは、読者であるビジネスパーソンの親の死後の準備を想定しているわけだが、全編データ分析ばかり続くといささか切なくなる。息子・娘世代が読むのだうから、完全なる「無縁」でもないのだろうが、時代の流れに乗り遅れるなと、予兆的な「無縁」にカウントされていく。
「多死社会でも進む墓余り」という惹句だが、要するに一般墓も納骨堂も選択力に劣り、今は合葬墓がニーズに適しているというのが結論だ。お馴染み樹木葬が広がり、海洋散骨がじわりと支持を拡大しているという話題も。現場にいる私にはピンとこないが、全国紙の全面広告をうつくらいだからそれなりの要望を集めているのだろう。
「費用」と「負担」の話ばかりかと思うと、後半になって碑文谷創さんがスパッと本質を射抜いてくれる。
「たとえ経済的に困っていても、死者は尊厳をもって弔われる権利があるし、その家族は弔い権利があるのです」「信仰ある人に葬儀で無宗教を強制するようなことが行われてはなりませんし、同様に慣習を理由に周囲がその人の「信じない自由」を犠牲にして、葬儀で宗教儀礼を強制するようなことがあってはいけません」等々。
何でもありの弔いの世界で、迷い多き読者にこうあるべしと教諭してくれている。適当なコメンテーターではなく、こういう先生が必要なのだ。
同誌の「編集部から」という短いコラムに、ある編集者が「お墓をめぐる常識が大きく変容する時代に抗するかのように」両親が禅寺の一般墓を購入し、檀家になったという個人談を書いている。「私自身も厳かな気持ちになり、この宗派の由来や教えにも関心を抱くようになった」と。お墓は高額商品でも、負の遺産でもない。(多くは親の)弔いをきっかけに、ならわしや習慣に出会い、過去の文化(宗教も含む)にふれ、自らの死生観を練り始める入り口でもあるのだ。
経済誌なんだから文句はいわない。だが、客観データにどっぷり浸かったまま、自分にとっての生死を考える機会を失うことは、人生にとって大きな損失ではないか、と思う。
「産む」と「死ぬ」から、生きるをめぐる場が必要だ。5月18日オープンの「むぬフェス」at應典院に、ぜひ「あそび」に来てください。