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2024/5/14【住職ブログ】「わからない」を出発にして語りあう

 すでに世代間ギャップがあるからだろうが、最近の若い人たちは、言葉の力が鍛えられる経験が少ないのではないか。僭越を承知で言うが、言葉にリアリティーが乏しくて、また過剰に忙しい。ネット世代だとか活字離れとかいろいろいわれるが、私は、他者と出会っていない、本質的な対話の機会が「奪われている」気がする。
私が大学生の頃は、政治の季節は終わっていたが、代わって勃興したサブカルチャーの洗礼を受けた初期の世代である。先日亡くなった唐十郎もそうだが、映画でいえばA T Gがあったし雑誌は「遊」があった。村上春樹のデビューは79年である。
 わかっていたわけではない。わからないのだが、言語にならないもどかしさと屈辱感を併せ持ち、悶々としていた世代認識がある。カフェなんてなかったから、居酒屋で終電まで「議論」を交わす。ワープロもなかったから、大学ノートに思いを曝け出す以外なかったのだが、それは自己について書くという貴重な経験だったかもしれない。
 だから格別にわれわれに言語力があったとも言わないが、サブカルがいつの間にはエンタメになって、S N S が席巻して、タイパが加速すれば、すべてわかりやすさの闇に落ち込んでいく。わかりやすいとは省略であり、要約であり、本質回避ともいえる。そうしているうちに、言葉の力、というか語ることへの関心が薄くなっていったような気がする。
 武田砂鉄は82年生まれだから、デジタル世代なのだが、「わかりやすさの罪」(朝日文庫)について言及している。理解できない状態(わかりにくい)に対し寛容であれと語る。
 「話の帰結のために言葉を簡単に用意しない。言葉はそこから始めるためにある。終着を出発に切り替える作業は理解を急がないことによって導かれるはずである」
 飛躍するが、自他認識について最も「わかりにくい」のが、死生である。どうやって生まれてきたのか、死んでどこへゆくのか、誰も経験を語ることができない。かつて宗教がそれを理解へと導く唯一の回路して存在したが、今はもっと仮想的なものが多様に用意されている。それがいいのかどうかわからない。わからないが、求めてもいないのに、簡単に「宗教では」と「答え」ない方がいいのだろう。語りにくいものをいかに語るか、言葉にするか、そういう過程から、多分発見や気づきが起きる。「終着を出発に切り替える」のだ。