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2024/6/4【住職ブログ】「むぬフェス」を終えて~お寺の可能性のアナザーサイド

むぬフェスが終わった。500名の来場者は多くが若い人たちだった。「産む/死ぬ」をもじった絶妙のタイトルに、「重いテーマをゆるく」という企画者たちのスタンスがよく表れていたと思う。
「お寺で開催する意味」が、壇上でも何度も語り直された。展覧会は前年の渋谷のギャラリーと同じ内容なのだが、巡回展にとどまらず新しい表徴となったのは、場所がさらに深い含意を織り込んだからだろうか。2階のギャラリーでは、生殖補助医療を題材にしたアート作品(「雪の子どもたち」)の向こう側に、大蓮寺の墓地の光景が拡がる。いのちという大きな主題が迫ってくるようだった。
「寺は死生観形成の拠点」と言ってきた。直接的に宗教にふれずともいい。人は生き死にを考えるに、守られた場所と時間が必要なのだ。そう伝えてきたのだが、もう少し踏み込むと、守られつつ、さらに創られた場所と時間と、無数の関係が欠かせないと感じる。若い世代の、それは特権でもあるのだろう。
「自分が考える」「自分で決める」「自分らしくある」等々、トークセッションで語られる言葉の少なからずが、自分語りの一人称であった。その率直さに好感を持ちつつ、意地悪く言えば、制御可能な人生観というものに危うさを感じないわけでもなかった。生老病死の営みは自意識だけではどうにもならない。それを手放すのがお寺という場所の存在理由なのだが、それに応えるように、むぬフェスの最初と終わり(オープニングとクロージング)には僧侶による仏教のトークがあった。自意識で闘う人と、他力にお任せの僧侶の対話の、ふわっとした非対称が、むぬフェスらしいとも思った。
 「仏教に学べ」と叫ぶつもりはない。かつてあったであろう死生観の文化や環境や、習慣や規範が失われた今、仏教は重要な参照にはなり得るが、それを形成するのは、あなた自身である。日本人の死生観はこういうものという定義は成り立たず、悪くするとなんでもありの野放し状態にある。それをだからもう一度、創りなおす転機(とチャンス)を迎えている、と思う。「若い人の特権」と書いたのは、試行錯誤する時間が十分あるからだ。
むぬフェスには、フロア同士、たくさんの語りあう場面があった。言葉にしたこともない重いテーマを、ここだから話せるという(初めて出会う)仲間がいた。死生を語りながら、笑い声が起きる。これもむぬフェスらしい場面だったと思う。
先に「創られた場所と時間」「無数の関係」と述べた。死生観が空洞化した今、自分で考え自分で決めるためにも、(研究室や書斎や、あるいは修行道場も離れて)こうした開かれた場所で、一から向き直すしかないように思うのだ。他者との対話によって自意識は抑制される。自意識のくさびが外れた時に、深層に眠っていたあなたの死生観が芽吹く。長く親しんできたテキスト、「個人の根底にあるコミュニティや自然、ひいてはその根源にあるものを再発見することで、新しい死生観が開ける」(広井良典)に近い感覚だったように思う。
いや、お寺の役割を断念したわけではない。應典院が目指しているものは、いわゆる布教でもなければ教化の場でもない。そういう専門職の囲い込み(思い込み?)を外した時、お寺の可能性のアナザーサイドが見えてくる。職場からも学校からも、また家庭からも忘れられた死生の物語を語り直すことを許された場所はここ以外にない。むぬフェスの第一印象である。