
【開催報告】秋田光彦「仏教+よもやま話vol.2 コーリング・ユー」を開催しました。
去る7月9日に、應典院住職・パドマ幼稚園学園長の秋田光彦による「仏教+よもやま話」を、應典院ロビーにて開催しました。この会は、パドマ幼稚園や應典院内パドマエデュケーションセンターに通う、保護者向けに実施されるもので、今回は2回目。蓮の花が彩るカラフルなロビー空間に、22名のママさんパパさんが集い、秋田住職の話に耳を傾けていただきました。
前回同様、司会の大蓮寺徒弟の沖田都光より「同称十念」のお作法で開会となりました。
秋田住職の話は、パドマ幼稚園で実施されているプールあそびの話から始まりました。
パドマ幼稚園では、水に親しむ、泳げるようになるということももちろんですが、「自分感覚」と「仲間意識」を育むことを大切にしています。プールあそびの中で、子どもは母親の羊水の中にいた時の感覚を思い起こします。母親の胎内で守られている、という感覚はやがて安心感へと繋がり、その結果「どんなことがあっても大丈夫」と、自信を持って羽ばたける子に育つと言います。
また、「流れるプール」は、皆で同じ方向にぐるぐる駆けることで大きな水流を生み出すあそびですが、ひとりでは出来ないことも、皆で協調、協同することで大きな渦を作ることが出来、やがてひとりでも出来るようになるのだということを、身を持って体験しています。
さて、この日のタイトルは、80年台の映画「バグダッドカフェ」の主題歌「コーリングユー」から引用して、「聴く」「呼びかける」「話す」についてのお話でした。私たちの思いや声は本当にあなたに届いているのだろうか?と考えさせられました。
そもそも「聞く」と「聴く」は使途が異なり、「傾聴」とは、ただ聞くだけでなく、聴き取ろうとする態度や姿勢のことをいいます。言葉の持つ力、あるいは他者との関係の大切さを感じる一方で、私たちの日常は噂話や陰口、フェイクニュースなどどうでもいい言葉に浸かってしまっている現実もあります。
そんな中、いったい正しい言葉とは何か。何を語り何を言うべきでないのか。お釈迦様が説かれた「4つの言う勿れ」を皆で口にしながら、正しいものの見方や行いで自己を律することについて考える時間を持ちました。
【不妄語】 偽りを言うなかれ
【不綺語(ふきご)】 ふざけたことばを言うなかれ
【不悪口】 悪口を言うなかれ
【不両舌(ふりょうぜつ)】 仲たがいさせるようなことを言うなかれ
また、幼稚園の学園長の立場から、子どもに正しい言葉を身に着ける方法として、一つは挨拶と、良い絵本との出会いと、挨拶の重要性についてお話されていました。
古典のように、世代を超えて受け継がれている物語は、一見長く読みづらく思うかもしれませんが、それだけ磨かれ、残り続けてきた言葉だということです。パドマ幼稚園には2千冊の絵本がありますので、ぜひたくさん読んであげて欲しいとのことでした。
そして挨拶。かしこまった挨拶は多くは親が同行しているので、まず親が率先して模範を示しましょう。挨拶しろというより、いつも挨拶の美しい親でいてくださいと。何事もスピードが求められる時代、スマホやラインでことは済ませ、「何が言いたいの」「要点をまとめて」とと結論を押し付けてしまっていないでしょうか。言葉がいつも急足で、立ち止まったり、考えたりする時間が薄くなっているように感じます。
日本の美しい挨拶に「行ってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「お帰りなさい」という親子の応答があります。古くは旅とは死出の旅であり、二度と再開できることがなかった。送り出す親は、子の無事を願い、無事の帰還を祝福したのでした。そこにいつまでも失われない、親と子の深い交わりを見ることができます。
最後にまどみちおの「朝が来ると」という詩を朗読しました。世界は無数の配慮や思いやりで出来ていること、生かされていること、「おかげ様」という言葉を返し合いながら生きていることを詠った詩です。
冒頭プールのお話で申し上げた通り、今なお胎内の記憶が残る子どもたちは、聖なる時間を生きています。人として生まれてきた価値は、世俗の生産、消費、効率、成果といったものが先にあるのではありません。幼稚園生活がそうであるように、感謝、信頼、共感、思いやりといった、聖なる価値をまず私たちが生活や暮らしの中で率先して実現していきましょう。仏教にはそのための方法がたくさん蓄えられています。ともに学んでいきましょう。