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2024/9/12【住職ブログ】「本当の自分」?探究と行動の場づくりを目指して

あるシンポジウムに出た折に、「自分らしさの喪失」という話題になった。曰く組織依存症とか役割の喪失とかコミュニケーションの不全等々、昔から論じられてきたことのなのだが、私は、暮らしの中に「異なる場所」を持つことを勧めた。既存の対人関係の検討より、自分を見つめ直す場をどう探しだすかの方が、面白いと思う。

私たちは、家庭と仕事の2軸を生きている。2つの場面における役割に過度なまでに応えようとして(あるいはそのような「期待の眼差し」にさらされて)、それが「生きづらさ」の要因となっている場合が多いのではないか。「自分らしさ」という、人生を賭けて探し出すべきものを、職業人・家庭人としての役割が優先され、その文化的な鋳型に与えられるパーソナリティを受け入れていく。自分とは何か、という探究を放棄してしまうのである。

最近の哲学ブームもそういったところに遠因があると思うのだが、都市生活において、圧倒的に不足しているのは、仕事と家庭以外に自分を回復するための場所である。カフェでも飲み屋でもいい。図書館とか公園でもいい。「肩書きや社会のコードから一旦離れ、リラックスし、自分らしくいられる場」(飯田美樹「インフォーマル・パブリック・ライフ)」が必要なのだ。美しいもの、楽しいものと巡り合うこともそうだが、そこで(職場では絶対出会わないような)新たな他者との関係が生まれ、自分のコードを外してみる経験も意味が大きい。他者とは、特別な才人をいうのではない。あなたも含め万人に備わった「もうひとつの自分」である。自分の中の他者は、外部の他者に出会ってひらかれていく。「自分らしさ」とはその窓の向こうに潜んでいるのではないか。

飯田の同書の中にはインフォーマル・パブリック・ライフの社会的意義として、「ソーシャルミックスを促すこと」「自己の観点を変え、視野を広げること」「訪れた人が本当の自分自身になれること」の3つが挙げられている。特に3つめは重要なのだが、場さえあれば「本当の自分」が自然発生するわけでもなく、そのための関係づくり、アクティビティ、プロジェクトが必要になってくる、と考える。また自己への関心だけに陥らず、「自分らしくある」ために社会に対する関心へと向き直していく視点や態度もさらに重要だ。

場(カフェでも、公園でもいいのだが)の真価が問われるのは、そういう出会いから、つながりへ、さらに探究から行動へと生成していくマネジメントであり、人の介在であると思う。

果たして、應典院がそういう場になり得るのか。精進していきたい。

(写真は10年前に訪れた、N Y のブライアント・パーク。コンサートや詩の朗読会など小さな場が催され、市民の「生きるための場」となっていた。運営はN P Oである。日本の公園政策との違いを思い知る)

 

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)