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2025/5/27【住職ブログ】日本人は幸福ではないのか。宗教の果たす役割について。

 米ハーバード大学などの研究チームが、世界の22カ国の幸福度について調査したところ、日本が最下位だったという報道があった(日経250501)同様の他の調査では、フィンランドとかブータンとか「世界で一番幸福な国」としてよく耳にするが、今回は少し趣が違う。インドネシアやフィリピン、メキシコが「幸福」上位で、G D Pを遥かに上回る日本がなぜ最下位なのか、その低迷について「宗教行事への参加が少ないことも関係があるかもしれない」という研究者の指摘が興味深かった。生きがいに関わる宗教の教えや行事を通じた人間関係の広がりが幸福度を押し上げた可能性があるというのである。
 もう少し大胆に考えてみると、教会に通うとか聖典を読むという宗教行為だけでなく、豊かな宗教的環境から倫理や道徳についてふれる機会が多くなるから、と推測できないだろうか。宗教者の語る言葉や、寺院や教会の歴史や伝統から伝播されていく人生観や死生観に、自己の生きがいや幸福感といったものを投影していくのかもしれない。

 翻って私の身近なところで言えば、幼稚園の仏教教育がある(ちなみに仏教保育と言わないのは、子どもだけなく保護者も対象と考えているからだ)。お寺が母体の幼稚園だから当然なのだが、私の幼稚園ほど「徹底」しているところも多くないかもしれない。保育室に仏壇が安置されている。毎朝念仏と般若心経を奉読する、親向けの毎学期、仏教講座がある等々、入園志願理由の第一が「仏教の幼稚園だから」なのだ。
 いや、形や様式を言っているのではない。「おかげさま」「ともにいきる」「思いやり」など子どもは、法話やテキストを用いて(あるいは作法を通じて)倫理や規範意識の萌芽のようなものを身体を通じて育んでいく。確たることはわからないが、それがあの子たちの将来の幸福感に寄与できていると確信する。

 應典院も同じとは言わない。子どもの幸福感と、成人は違うだろうし、親でもない、若い世代にとっても幸福とは相対的なものだ。だが、(あそびの精舎フォーラムを再開してとりわけそう思うのだが)あえてこの場所に足を運ぶ人たちの意識の中に、イベント会場とか研修センターとは異なる精神的な希求が込められているのであって、それがこの場を通して何らかの変容を招くのだとしたら、私には本望としか言いようがない。いいもの食べて、いい所に住んで、高い報酬を得る、といった「消費的充足感」ではなく、本物の「幸福感」に巡り合うため、他者や場に出会い、関係や言葉を紡いでいくのである。イベントもセミナーも、本尊やお墓や森の風景もそのための「ご縁づくり」でありたい、と願っている。

 先週、開催した松本紹圭さんのワークは、働き盛りのビジネスパーソンが対象の内容だった。最後にスライドに投影されたコピーはこうだ。

「企業(人)にとってよき祖先として振る舞うとは?」

 問われたこともないような問いに向き合い、答えようにないものを巡って、他者と関わり合い続ける。おそらく日本人の「幸福感」とはそういう探究の旅(情も必要だが)の行方にゆっくりと立ち現れてくるものなのではないか。

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)