
2025/6/12【語りのアーカイブ】應典院の魅力を語るシリーズ②大西龍心さんインタビュー(前編)
應典院のWEBサイトは現在、事業やイベントの告知のみならず、過去事業の開催報告などのアーカイブ、あそびの精舎としての取り組みや狙いを仏教の教えと共に伝えていくことを主な目的としています。情報の提供だけでなく、読み物としても充実したサイトになっていくことを目指して、この度、新たにインタビュー記事の連載を始めることにしました。應典院に縁のある方々から、これまでの應典院との関わりや、場所としての魅力や可能性について語って頂きます。
第2弾は、長く應典院の活動に参加・観察されてきた、真言宗僧侶大西龍心さんにお話を伺いました。今回はその前編です。
インタビュアー/齋藤佳津子
大西龍心(おおにし りゅうしん)
昭和41(1966)年大阪市内の在家に生まれる。小中高はカトリックの学校に通い、神戸大学文学部在学中に母方の祖父のお寺を継ぐことを決意。大学を休学して高野山専修学院に入学、一年の修行の後僧籍を取得して大学院に進学する。平成9(1997)年小学校の同級生であった妻と結婚。平成13年(2001)より観音院住職を拝命し、翌年の祖父の遷化に伴い妻と二人でお寺の運営を行う。一男の父。お寺以外では人権擁護委員や保護司を務める。
ー初めて應典院にいらしたのはいつでしたか。当時はどんな印象を持ちましたか。
初めて来たのは、2004年、宗教人類学者の上田紀行さんの講演会でした。直前に出た「がんばれ仏教」という本に紹介されていたんですが、おもろい寺があるもんやなと。来てみてびっくり。やっていることもそうですが、建物も空間もお寺じゃなかった(笑)。アートや市民活動フライヤーがずらっと並んでいて、ちょっとカルチャーショックでした。
「場」のつくり方にも学ぶものがありました。2008年、当時のチベット騒乱に対して、「仏(ぶつ)リンピック」大阪大会」という、他宗派のお坊さんが大勢集まってイベントをやったんです。秋田住職がファシリテーターをやられたんですが、場のさばきというか采配が見事でした。いろんな宗派の、いろんな思いをもったお坊さんがいるわけで、バラバラになりがちなところを、多様性を担保しながら一方通行ではない「場」に仕立てていった。以来、長く通っておりまして、いつも應典院という「場」から生まれる発見や出会いや、楽しみがあります。
ー大西さんはお寺のお生まれではないのですね。
生まれは大阪市内の一般家庭で育ちました。祖父が堺の観音院という寺の住職を務めており、よく遊びにいきました。祖父はとにかく勉強好きで、暇さえあれば本を読んでいる人で、夏休みなどは長い間、お寺におりましたから、自然とそういう環境に馴染んでいった。「お坊さんは勉強していても怒られない職業なんだ」という憧れに似たものがありましたが、祖父も父母も、「寺を継げ」とは言いませんでした。
インド哲学や中国思想にも興味がありましたが、幅広い文献を読みたくて神戸大学の文学部に進みました。何がやりたいか考えるようになって、「天命」のように僧侶になると決めて、大学2回生の時に真言宗の道場である高野山専修学院に入りました。それまで培われてきたご縁があったんでしょうね。結婚を機に観音院に移り住みました。もちろん祖父は喜んでくれましたよ。
ーその後、ゲストとして應典院で登壇もしていただきました。
何度かお招きいただいています。精進料理と食作法の体験会をやったり、一般の方々と戒名ワークショップをやったり、去年は終活カフェでもお話もさせてもらいました。
講師になって直接、参加者の方と触れ合うと、普段出会わない人と出会うことが多いんですね。地元の仏教会とか自宗の会合とかたくさんありますが、基本同じ宗派の同じ顔ぶれになってくるので、だんだん馴れ合いになっていく。今はだいぶ変わってきましたが、当時、お寺で誰かと、他者とつながれるといえば、應典院しかなかったように思います。
ー他宗の僧侶が出会える、というのは初期の頃の應典院の特異性とよく言われました。
お坊さんは基本、自分の宗派の世界にいるので、そこに囲い込まれてしまい、気がつけていないところが少なくないと思います。檀家さんからはついつい祭り上げられてしまい、無意識なんだけど床の間に上がっている存在ですね。さっき申しあげたように、應典院はその無意識な同調性がなくて、一般の皆さんと同じ土俵で何かを作るという経験が生まれる。それによって気づかされたお坊さんは多いと思います。