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【開催報告】 ほっとけーき(仏契機)の会  30代僧侶のオープントーク

去る5月29日に、「仏契機(ほっとけーき)の会‐30代僧侶のオープントーク」を開催いたしました。應典院にはじめてこられたという方も多く、2階のガラス越しに見えるお墓の景色に驚いておられました。幼稚園おわりの親子連れ、記者さんも3社もお越しくださり、約30名で賑わいました。

まず、コーディネーターの陸奥賢さんより挨拶、そして應典院・秋田住職より同称十念でみなさんと手を合わせスタートしました。
タイトルのとおり、会場ではホットケーキが焼かれ、甘い香りに包まれながら、僧侶である釋大智さん、加賀俊裕さん、秋田光軌さんが、それぞれのテーブルで参加者のみなさんとお話する時間が過ごされました。(稲田瑞規さんは残念ながらご体調によりお休みでしたが、会場のみなさんに向けてお手紙を書いてくださいました)
焼きあがったホットケーキを食べながら、みなさん熱心にお話され、会場全体は大盛り上がりで、あっという間に45分が経ちました。
その後は、各テーブルでの話題を持ち寄って、僧侶3名と陸奥さんのクロストークとなりました。次のような話題が広がりました。

僧侶として気づかされること

・「お坊さんは仏教で救われているのか」と問われたことがある。僧侶であるからにはその先頭にいなければと気負いがあった。家族と一緒に毎日お勤めしていると、心が軽くなったりするから不思議。生活のなかに仏教はあるものだと思う。

・世俗の目線と違う価値観をもつことができたのは僧侶になってよかったと思う。でも、お坊さんもやっぱり悩みはある。

・親鸞聖人は「(阿弥陀仏は)ものの逃ぐるを追はへとるなり(逃げている人を追いかけて救いとる)」と言われ、どこまで離れても、追いかけてでも救いにくると言われている。こわいくらい強い救いがある。

・よくキリスト教で「懺悔」というが、仏教にもある。浄土宗では「懺悔(さんげ)」というが、凡夫である自分を懺悔して、また一日を過ごすことの繰り返しが人生であり、いつの日か極楽浄土へ救われるという教え。救いとは、楽を得ることではなく、常に自分を省みるしんどさの中にある。スッキリする=救いではないのかもしれない。

型のなかでも、衣をぬいでも

・パドマ幼稚園の大きな特徴は、すべての教室にお仏壇があり、毎日仏参していること。幼稚園の中心は、み仏様。み仏様の前では、大人も子どもも先生も、みんな一緒。みんな見守られている。

・(参加者のコメントから)仏像や曼荼羅が好きで近寄ったけど、仏教はそんなに知らなかった。そんな自分でもよいのかと思っていたが、稲田さんのお手紙を読んで、いろんな入口があっていいと書いてあったので安心した。

・仏教は「仏になる」を目指す。真言宗の場合は、『御堂筋2000人のマイケルジャクソン』のコスプレダンサーじゃないけど、「なりきる」こと、仏そのものになって、動く、「エトス(型)」から入るということだと思っている。

・親鸞聖人は型から離れた場を大事にしていた。衣を抜いでどこまで僧侶でいられるか。じつは自分は、結婚してからずっと体調が悪い(笑)。子どもからあらゆる病気をうつされている。しかし父がこう言った。「家庭は道場だ。結婚は修行だ。」

世俗のなかで、家庭のなかで、そしてただひとりとして

・子どもの唱えるお経は、なぜかとても有難い。お経ってなんだろうと思わされる。

・先輩の僧侶から「儀式の大切さを妻に伝えられない者に儀式はできん」と言われたことがあるが、それ一番難しいやつです‥、と思った。

・子育ては、弟子教育にもなるが、一番やりづらい。

・(参加者の僧侶のコメントから)修行から帰ってきてからの方がしんどく感じる。世俗の方が修行だと思う。奥さんに尊敬されている僧侶が一番えらいと思う。

・(参加者のコメントから)子育ては確かに修行だと思う。追いつめられるから、なんとか家庭を保つために、自分も学ぼうとする。

・家族でいると、時には母が父のように叱り、兄が弟を母のように守り、役割が行き交いながら、まるで「家族」という一生命体ように感じる時がある。私は私に限らず、いろんな役割をもつことができる。

・しかし仏教とは、家族のいない人、子どもに恵まれなかった人、ひとりを選んだ人、いろいろな生き方があって、その誰しもが、ただひとりとして仏と繋がることができるのが醍醐味である。いま目の前に広がる死者や無縁の方々にも私たちはいつでも繋がることができる。

お寺ってなんか気になる、お坊さんとお話してみたい、そんな方の素朴な質問や想いを、僧侶と応答しながら、少しずつ深めていき、もっと知ってみようと思う入口になれれば、まさに「仏契機」の会として本望です。供養や法話でもない、僧侶と過ごす時間はあまりないのではないでしょうか。
トークの間も、絶え間なく笑いが起き、楽しくもあり、しかしそれぞれ僧侶しての生き方をみつめておられる姿に感動いたしました。
会をともに過ごしてくださった皆さまのおかげで、とてもいい時間になりました。