
2026/1/8【住職ブログ】人間性の原初を問い直す。「あそびの精舎」2025年の軌跡
日経新聞に、AI時代の雇用を特集した記事が掲載されていた(昨年12月8日付)。米国では倫理関連職が5倍に伸び、哲学を専攻した人材が活躍の場を広げているという。最速で正解を出すことを競ってきたAI産業の最前線において、むしろ「答えのない問い」の存在価値が見直されているという指摘は、きわめて示唆的である。
昨年、應典院では「あそびの精舎」が本格的に展開され、例年以上に多様な場が生まれた。個々の企画はそれぞれ異なる表情をもっているが、それらを横に櫛刺しして眺めてみると、供養、死者、慈悲、身体、記憶といった、効率や評価とはほとんど無縁の「答えのない問い」を一貫して扱ってきたことに気づく。
ここでは、何かを教えたり、結論を導いたりすることが目的とされていない。参加者は、異なる背景や思いを抱えたまま同じ場に集い、ともに語り、考え、時には身体を動かす。その過程で立ち上がってくるのは、答えではなく関係性である。仏教的に言えば、それは「縁」が可視化される場であり、同時に、現代における寺院の希少価値そのものだとも言えるだろう。
AI時代になると、「わかる」「できる」といった理性中心の価値観だけでは捉えきれない、人間性の原初があらためて問い返される。「わからない」「できない」という、ある意味での〈幼さ〉に立ち戻ること。それは、子どものあそびにも似た視点から、世界像や社会観を組み替えていく営みではないだろうか。仏教思想が本来起動してきたのも、まさにそのような地点においてであった。仏教における「あそび」とは、目的や成果から一度身をほどき、存在そのものとして世界と関わり直すための、きわめて根源的な態度でもある。
「あそびの精舎」の相方であるディープケアラボは、この実践を以下のようにまとめている。
「人間の精神性やスピリチュアリティを、長い時間をかけてケアし、守ってきた『お寺』が、自治体・企業・住民・大学機関に加わる『第5の存在』として共創に関与することで、効率や正解を急ぐ共創ではなく、『人間としてのあり方そのもの』を探索する共創が開けるのではないか――」(あそびの精舎note)
應典院がそこまで大それた存在を担えるかどうかわからない。しかし、仏教は本来、教義を閉じた形で保存する宗教ではなく、人間の苦や迷いに向き合い続ける実践の体系であって、上記の通り、「人間としてのあり方」そのものが現代社会における苦の一つであるならば、それを問い続けることもまた、應典院が引き受けるべき役割なのだろう。
仏教の実践は、常に社会の只中で試され、更新されてきた。應典院が目指しているのも、仏教を思想として保存することではなく、現代社会の現場で「使ってみる」ことである。インサイダーだけでは予定調和に陥りがちな硬体から、解きほぐし始めた一年でもあった。かっこよくいうと、寺を「リビングラボ」としてひらき、仏教の問いを社会に差し出す試みが、少しずつ始まっている。
AIが正解を提示する時代だからこそ、正解を急がない場が必要になる。寺院がもつ時間の厚み、評価から自由な空間、そして人間の苦や迷いに向き合ってきた歴史は、そのための重要な資源である。使わない手はない。應典院は、いわゆる「宗教施設」の枠を超えながらも、仏教の核心から離れることなく、その可能性を来年も試行錯誤していきたい。
2025年の「あそびの精舎」の取組みを、お寺が社会と出会い直す一つの社会実験として、ここに記しておきます。
「あそびの精舎」のnoteはコチラ>>https://note.com/asobi_outenin





