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2026/3/2【住職ブログ】應典院とアート。死者から受け取るもの。

先日あるオンライン研究会で、應典院の表現活動を振り返る機会があった。もう30年になるので、いろんな経験が掘り起こされるのだが、何を共通の軸としているのか、考える契機となった。投げかけられたテーマは「死者から受け取ること」。死者は自分が意図して思い出す対象というより、意識を超えてこちらの生活の中に「現れてくる」という事象についてだ。親しい人を喪った経験のある人なら、珍しくないことかもしれない。
先祖仏教にも死者を「受け取る」豊かな地層がある。しかし、特定の故人に対する個別の供養にとどまり、個人の記憶に閉ざされがちだ。その分、死者を想うことさえ私事化して、社会の中からは静かに消し去られていく。畏れ多い気もするが、それを再起動させたのが、應典院の表現活動ではなかったか。
「遺影、撮ります」(2007)は、写真家が元気な高齢者の遺影を撮影して、そのナラティブとセットで展示したもの。今なら生前の遺影も珍しくないが、20年前はまだまだタブー感があった頃だ。特定の家族の中にあった遺影が社会の中に現れて、公共空間に死者が開かれていく。「減災のブリコラージュ」(2009)は、被災地でも使われてきたであろう家財道具や生活用品を集めたインスタレーションで、ここに不在という存在が立ち上がる。直接的な死者ではなく、死者にまつわる関係の余白みたいなものを空間に配置していくのだ。「リーディング 加害者家族」(2015)「キオクノキロク」(2023)然り、應典院の表現空間は死者との関係を、可視化して、また公共化してきた試行錯誤であった(2023以外の写真は名手・山口洋典氏)。
それにしても、と思う。いまどき美術館やギャラリーでも「死者」を扱いやすいテーマなのかもしれないが、30年にわたってそれを持続してきた空間は稀有であろう。おそらく、これは都市寺院・應典院の儀礼なのだ。広い意味で、ここでの表現(儀礼)とは死者の記憶のためでなく、関係が立ち上がるための装置として、それなりの意味があったのではないかと思う。「受け取る」のは、使者からのメッセージではない。儀式や表現を通して、生者から死者へ送り、また死者から余白のようなものを「受け取る」その循環をいうのである。

▲「遺影、撮ります」(2007)

 

▲「減災のブリコラージュ」(2009)

 

▲「リーディング 加害者家族」(2015)

 

▲「キオクノキロク」(2023)