
2026/6/18【住職ブログ】他者の声を通して本に出会う
月曜日の夕方6時半。仕事を終えた人たちが、ぽつりぽつりと應典院に集まってくる。月一の読書会の参加者である。多い時で十人ほど。大学教員もいれば、看護師もいる。介護士もいるし、幼稚園の職員もいる。年齢も職業もさまざまだ。今読んでいるのは、ティム・インゴルドの「教育とは何か」である。私が一人で読むには、なかなか手強い本だ。
毎回、担当者が自分の受け持ち部分をまとめて発表する。皆の意見が飛び交う、というわけでもないが、これほど言葉が過剰で安易な時代に、絞り出される一言はずっしりと重みがある。仕事に没頭している時間でも、家でくつろいでいる時間でもない。何かに規定されたり、抑制されることのない、これは一つの中間的な時間であろう。
近年、アメリカでは「リーディング・リズム」と呼ばれる読書会イベントが人気を集めているという。スマートフォンやパソコンから離れ、本を読み、人と語り合う。SNSやオンラインコミュニケーションが生活の中心となった反動とも言われる。確かに、読書会にはデジタルデトックスとしての側面があるだろう。
それも同意しつつ、私は読書会の本当の魅力は、「他者の声を通して本に出会う」ことである、と思う。
向井和美さんは「読書会という幸福」(岩波新書)のなかでこう書いている。
「仲間の発言を聞いているうちに、自分が耕されていく感じがして、自然に話したいことが頭に浮かんでくるようになった」
「本について語りながら、実のところわたしたちは自分の人生について語り合ってきたのではないか」
まさに読書会で起こるのは、この経験である。
本を読んでいるようでいて、実は人を読んでいる。人の話を聞いているようでいて、実は自分自身と出会っている。人生観や信念、宗教観や死生観など、普段なら正面から語れないことも、本という媒介があることで自然に語ることができる。読書会という特異なコミュニティによって、他者の姿が立ち現れるのである。
大学教員や専門家の解説はもちろん重要なのだが(この読書会では弘田陽介さん)、しかし、看護師や介護士、保育者といった、ごく普通の人たちが専門書を読み、自らの経験を通して語る言葉には、独特の重みがある。研究者が十冊の論文を読んで到達した結論に、現場で働く人が一言で触れてしまうことがあるのではないか。知識の量ではなく、生きられた経験が言葉の背後にあるからだろう。
SNSでは瞬時に意見が飛び交う。しかし読書会では、一つ一つ深く考え、丁寧に発話される。読書会は他者の声によって、本が新たに開かれる場である。声によって、自分の内側に眠っていた言葉が喚起され、「魂の交流」と呼ぶべきものが、確かに存在するように思う。
向井和美さんの同書に、こんな一節がある。
「私がこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言ってもよいかもしれない」
そうなのだ。人が孤独や怒りや絶望を抱えながらも生きていけるのは、自分とは違う他者と出会い続けられるからなのだ。誰にも内在する他者の力を引き出すことこそが、場の力なのだ。それは表現の場でも、対話の場であってもいい。読書会もまた、それをなすための小さな公共空間なのだと思う。
