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3月18日 表現と祈り〜発災から1週間、應典院の願い

表現と祈り〜発災から1週間、應典院の願い

「このメッセージは、去る3月18日朝、この日より公演準備に入る劇団のみなさんに語られたものです」

ここ(應典院)で演じられる、すべての表現は祈りに通じている、と思います。商業演劇は別かもしれませんが、コメディーであっても、サスペンスであっても、ここで創造されるすべての身体表現は深い祈りに通じています。

人間は、誰かから要請されたから、強制されたから表現をするのではありません。自らが何かを表現したい、という思いが立ち上がる時、そこに表現者が生まれ、祈りが重ねられている、そう考えています。

祈りとは大いなるものへの願いであり、誓いです。應典院でいえば仏さまへ信心を届けることですが、それは神仏以外の何かであってもいい。大いなるものと表現によってつながろうとする時、そこに祈りが現出します。表現者と鑑賞者がいて、表現が介在しているのではなく、両者が一緒になって大いなるものを目指す時、そこに祈りが生まれます。

鑑賞している人は、お客様だけとは限りません。應典院の本堂ホールの東には無数の墓地があり、ここでの表現は無辜の死者に届けられることになる。お客様といういまここに生きている人たちだけでなく、姿なき、声なき人々にも届けられていきます。お寺で表現するということは、生死を分かたず、大いなる誰かに対し、たいせつなものを届けるという、二重、三重の祈りなのだと思います。

大きな悲劇を前にして、表現者に何ができるのでしょうか。1.17の時も、9.11の時も、抗うことのできない大惨事に対して、そのことがずっと問われてきました。日本的には「歌舞音曲は不謹慎」「自粛」というのが、ある種の伝統なのかもしれませんが、9.11の後、ブロードウェイは1週間後に再開したと言います。

私が一番印象に残ってるのは、9.11の惨禍の中、人々の悲嘆を、ポエトリーリーディングでつなごうとした詩人たちの行動でした。路上に出て、悲しみに打ちしひしがれる人々の手をとり、ウォルト・ホイットマンの、すでに古典となった詩を皆で分かち合う。直接、被害に遭った人を悼むような内容ではないのですが、米国人であれば誰もが知っている名詩であり、言わば心の故郷のような詩編が人々の思いをつないだといいます。皆が輪になる、肩を抱く、読み上げる。そうした路上における朗読の場は、傷ついた心を修復するような作業だったのかもしれません。

表現者は、悲嘆を解消することはできないが、悲嘆に喘ぐ人たちに寄り添う存在となれるのかもしれません。悲しみは、表現によって他者と連帯するのです。そして、それは被災した人たちもそうですが、実は、直接被災をせずとも心の被災をした、すべて人たちにつながっている共通の絆となる。悲しみが表現を通してつなぎあわされていき、それが共感と連帯を呼び覚まし、新たな生き直しへと心を向かわせるのではないでしょうか。私は、それが表現における祈りの要素でないかと思います。

演劇は、舞台の上で営まれる「なまもの」です。そこでは、セリフや物語を軸に、ただ一度きりの身体や空気、そして客席との呼応の中から立ち上がっていく、全体の関係性が主人公です。僧侶が称える念仏も人々とともに称えることで響き合うように、演劇は一人の役者の祈りというより、全体の関係性が織りなす、協働の祈りなのです。

念仏と演劇を重ねることは、どこかではばかられるのかもしれませんが、少なくとも應典院に集う人たちは、自らが発信源となり、他者と協働することを通して、響き渡る祈りを生きていると思っています。表現をする人々、それを支える人々、そこに参加する・鑑賞する人々等々、各々の思いが共振し、そこから大いなるものを希求する何かが立ち上がってくる。今、未曾有の災害の状況にあって、改めて表現とは何かと考える時、私にはそういう地底から浮き上がってくるような祈り以外のものは感じられないのです。

いろんな自粛ムードが漂う中、熟慮された結果、あえて今回の公演に取り組もうと決断された方々に敬意を表します。だからといって、特別な表現をしようとするのではないのでしょう。ふだんのままでいいのです。なまものは、その時々の状況を引き受けざるを得ない。この災禍に臨んで、表現に何ができるのか、そういう重い問いを抱えながら、舞台に立つことが尊いのです。

三つの祈りをお話しして終わりにします。まず災害により亡くなった多くの犠牲者の供養のための祈りです。次に、被災地の一日も早い復興を願う再生のための祈りです。そして、それでも私たちは今、確かにここに生きていることの、気づきの祈り。一つ目と二つ目の祈りは、三つ目の気づきの祈りを分かち合うことによって、より確かなものになるのだと思います。いま表現者の祈りとは、それを欠いてはならないと思います。

最後に3月11日に喪われた多くのいのちに、深く哀悼の意を捧げます。そして、多くの表現を通じて、祈りの響き合いが生まれることを願っております。

南無阿弥陀仏
2011年3月18日
大蓮寺住職・應典院代表 秋田光彦