6月11日 さいごのいきかた(1)身体性と新体制 中島岳志さんを招いて・・・「ジモト主義への契りと絆 〜開かれた共同体への結び目と橋渡しのかたち〜」開催
去る6月11日(土)に北海道大学公共政策大学院准教授の中島岳志さんをお招きして「さいごのいきかた(1)身体性と新体制 中島岳志さんを招いて・・・「ジモト主義への契りと絆 〜開かれた共同体への結び目と橋渡しのかたち〜」」が開催されました。お話しの内容は多岐にわたりコラムとしてまとめることは大変難しいのですが、印象に残った点をスタッフ目線から概観させていただきます。
東日本大震災からちょうど3か月が経ったこの日、物故者への法要と黙祷から始まり、中島さんのお話も自ずと阪神大震災の記憶と東北の被災地報道から触れることに。阪神淡路大震災が発生した1995年を二十歳という多感な歳で迎えた中島さんにとって、当時の経験はその後の研究生活を決定づけるものとなりました。その後、人間にとって信仰とは何かという壮大な問いに始まり、やがて西洋近代思想、ポストモダニズム論や親鸞の教義をはじめとした様々なイデオロギーと思想についての論究へとつながる中で、それらを現代社会の諸現象を紐解く鍵としながらご自身の研究領域を広げていかれます。フォーラムでは應典院という場の特性から、仏教思想の掲げる死生観や共同体についての考察に焦点が集まりました。
とりわけ中島さんは現代の社会を「ポスト95年的状況」と提起。つまり何を信じてよいかわからない、シニシスム的風潮が蔓延する世相においては、ズバッとすべてを断言してくれる司会者像など「断言型オレ様主義」が求められるといいます。わかりやすさと強引さ、論理構成よりもさいごの強さがよしとされる社会の在り方を危惧しながら、その背景にある国民をとりまく底知れぬ不安感に着目されます。さらに、この傾向は関東大震災直後の1920年代半ばの時代に酷似していると分析。
それでは、このポスト95年的状況、そして東日本大震災を経験した私たち日本人はこの「災後社会」をどのように生きていくべきなのでしょうか。フォーラムの後半、中島さんを囲む形での質疑応答の中では、今回のテーマである「絆」や「ジモト主義」に触れながら、幾つかのヒントが投げかけられました。
例えば「今は絆の大合唱。しかし絆には「きず」という文字が含まれる。傷つくことで相手と関係が取り結ばれることもある。」という会場からのご意見に対しては「これからの絆のありかたは、共同性の中にある単独性を重視することが必要になってくると思います。つまりバラバラで一緒、一緒においてバラバラであるということが本当の絆であるということです。(中略)個人として発話する権利を大前提としたコミュニティが重要であり、應典院もそういう空間だと思います。」と指摘。
また「『秋葉原事件』を読み、加藤智大が本音と建前が違う、そして本音と本心が違う、という話をしたのが印象的だった。今日、ジモトは可変的・重層的と聞き、がんばる強さのために賢くならないと思った。」という参加者の方からのご感想も。
震災後、既存の価値観やコミュニティが崩壊し社会全体が不安感に苛まれる中で、人々が寄って立つ「ジモト」「絆」といった何か確固たるものの存在が浮き彫りになり、その意味合いも再考される時期にさしかかっているのかもしれません。