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2017/6/20 主幹コラム:竹内敏晴の演技論~表現をささえる場に向けて~

◇應典院と竹内敏晴

再建20周年を迎えた應典院ですが、初期の活動を支えてくださった方のひとりに、演出家の竹内敏晴さん(1925-2009)がいらっしゃいます。竹内さんは、小さい頃に難聴であったため、言語の獲得と発声が困難であった経験や、劇団「ぶどうの会」の活動を通して演劇を追求するなかで芽生えた、人と人が本当の意味で「出会う」とはどういうことなのかという問いをもとに、「竹内レッスン」と呼ばれるからだとことばのレッスンを開発されました。應典院では1999年の「第15回寺子屋トーク」に登壇されたのをきっかけに、2009年までの10年間にわたり、1階研修室Bにてレッスンを行っておられました。

演劇にとどまらず、様々な分野に影響を与えた竹内さんの演技論を、この短いコラムで伝えることは到底不可能ですが、無理を承知で大ざっぱにまとめてみることにしましょう。以下は、代表作『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)からのスケッチです。

◇演技とは何か

普通、演技とは、役のイメージを頭に細かく描き、その身ぶり話しぶりを正確にまねすることだと思われている。これは隅から隅まで意識的な操作である。「役になりきる」という考えの根本には、役というものが客観的なものとしてあり、それと自分とは違うという考え方がある。すなわち、声の出し方、歩き方を、いろんな形で訓練して、だんだん役に近づけていく。竹内はこれに反して、実際に役を生きている自分以外に、役というものはないと考える。意識によって計測し、自己の肉体を操り、客観的な役のイメージに近づくという方法では、無意識の領域は切り捨てられてしまう。

そこで、竹内にとって「からだ」が中心的な主題となる。からだは、意識に使役される肉体ではない。むしろ、意識はからだ全体のはたらきの一部にすぎない。意識によって無意識を操作することはできず、だから無意識がはたらきはじめるような、からだの状態を正確に準備することしか、演技者にできることはない。無意識は、私たちの手のおよばぬところで働き始め、やがて全身を浸していく。

演技とは、からだ全体が躍動することであり、意識が命令するのではなく、からだがおのずから発動し、みずからを超えて行動すること(そして、他者やものに働きかけること)である。形が、ことばが、叫びが、生まれ出る瞬間を準備し、それを芽生えさせ、それをとらえ、自らそれに立ち会い、おどろくこと。自分が本当に自分であるとき、もはや自分は自分ではない、というような美しい瞬間があるにちがいない。

一方、ふだん私たちのからだは、日常生活の規範によっておさえつけられており、ひととひとの全身的なコミュニケーションは捨象されている。演劇は、日常のルールにのっとった行動を、新しく組み立てた約束事によってぶちこわし、その裂け目からなまなましく沸騰してくるものを突き付ける装置なのだ。まさに演技とは、日常生活の約束事――科学的思惟や管理社会の常識――によって阻害されている『生きられる世界』――根源的体験――をとりもどす試みである……。

◇場の条件をふりかえる

長くなりましたが、以上が竹内さんの演技論の要約めいたものです(こうした理論が、実際のレッスンの現場でどのように実践に移されていたかについては、講談社現代新書『「からだ」と「ことば」のレッスン-自分に気づき・他者に出会う』をご参照ください)。家庭でも職場でも学校でも、私たちには何らかの社会的規範に則したふるまいが要求されており、その役割を演じることから逃れることはできません。役割から距離を取り、自分が本当に自分であると同時に、もはや自分が自分ではない、そういった体勢をつくること。ここで演技は、見知らぬ他人になりきる技術ではなく、覆い隠されている自己の真実に気づく実践となっています。自分や、さらには他者との出会いなおし、それが竹内さんにとっての演技をめぐる中心的な主題であり、またそれは、お念仏を口にすることで「阿弥陀仏」という最大の他者との関わりを取り結ぶ、浄土宗のおしえともつながる部分が多いように思われます。

さて、應典院の黎明期において、秋田光彦住職もまた、竹内さんの演技論に大きな衝撃を受けた一人であったといいます。2017年1月に、コモンズフェスタ2017の一環として開催したトークイベント「寺で演劇祭~space×drama15年~」でも言及されていた通り、住職はかつて竹内さんからこう語りかけられたそうです。「表現をささえる場の条件とは、まず『何を表現したらいいか探すことのできる場』、次に『規制しないで失敗できる場』、最後に『素晴らしいと他者から認められる場』であることだ」と。これらの条件もまた、上に書いたような出会いなおしのために、場が準備すべきものとして挙げられていることは言うまでもありません。演劇表現のみにかぎらず、現代アート、葬送やケア、教育といった問題に取り組んできた應典院の20年は、竹内さんのこのことばを仏教寺院においてどのように具体化することが可能か、という挑戦であったと言えるかもしれません。應典院がこれからも表現をささえる場であるために、何が大切なのかを今一度見つめていければと念じています。

秋田光軌