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2017/8/12 主幹コラム:お寺という場~死生への問いを探究する~

皆さんは、お寺やお坊さん、または仏教そのものと、どのような関わりをお持ちでしょうか。葬儀やお墓の、主に金銭的な事情に関心のある方はいらっしゃるかもしれませんが、それ以上の関わりはないという方が大半と察します。しかし、もともと仏教は、死という局面に限らず、日々の暮らしの只中で実践されるものでした。

ところで、現代社会を生きる私たちにとって、仕事という営みは、しばしば人生そのものと混同されてしまうほど重要なものとなっています。多くの職場では、文章や数値や図形によって物事を目に見えるようにし、結果を反省することで問題を見出し、対策を取ってその解決に向かうわけですが、ここで一貫して使用されている論理は「私は~できる」という成長志向です。今できないことも、努力すればいつか必ずできるようになる。私たちは仕事における成長を通じて、職場が採用する物語や価値判断を、多かれ少なかれ自らのうちに浸透させていきます。それは時に大きな喜びや生き甲斐につながることもあれば、時には成長しない・できない他者を「無能な奴」と蔑む要因にもなるでしょう。

一方で、お寺という場は、職場と同じ位相にはありませんし、社会のその他の場所、あるいは安心して居ることのできる我が家とも異なっています。お寺において見出される問題とは、「何故この私が生まれ、死んでいかねばならないのか」という、極めて根源的な種類のものです。この種の問いは、私の努力によって解決できるものではありません。むしろ私たちには、「私は~できない」という事実に気づく余地が、最後にかろうじて残されているだけです。自らの意志で生まれてくることもできなければ、自らの意志で死んでいくこともできない。それが、私たち人間の在り様なのですから。

ただ面白いことに、「私は〜できない」と気づくこと、それも頭で理解するのではなく身体で会得することができるのは、上記の問いに対峙し、探求する努力をつづけた者であるという言い方もありえます。生命そのものから発される問いをめぐって、仏教のおしえを手がかりに探求し、気づくことが許されている場。それこそがお寺ではないかと、私は考えています。

実は、葬儀や先祖供養を行うこと自体が、お寺の目的ではありません。葬儀や先祖供養は「探求する道筋のひとつ」として非常に大切な表現であって、あくまでも気づきのプロセスの渦中にあります。単にお葬式をすることだけが目的となっている施設は、お寺とは呼べないのではないでしょうか。そして、もし職場や家庭でその問いと向き合う機会がもたらされるならば、職場や家庭もまた、その瞬間はお寺であるのかもしれないとも感じるのです。

秋田光軌

(2016年8月5日、大阪日日新聞コラム「澪標」から抜粋・再掲)

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秋田光軌
(浄土宗大蓮寺副住職)