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あそびの精舎を深める5つの視点ーー#1「あそびとまなび」

あそびの精舎を深める5つの視点ーー#1「あそびとまなび」

1997年にリニューアルをした大阪・下寺町の一画にある開かれた寺・應典院は2024年4月から、「あそびの精舎」構想を掲げた再始動をします。本構想は、子どもからお年寄りまで多世代がつどい、あそびから、いのち・生き方・暮らしといった「ライフコモンズ」を育むことを掲げます。だれもがわたしを生きられ、互いに思いやりあえる、そんなコミュニティをを目指して活動します。

 

https://asobi.outenin.com/

 

本連載「メイキング・オブ・あそびの精舎」では、この構想に込められた想いや背後にある哲学、私たちの目指したいことを5つの視点から紐解いていきます。この構想は、多様な識者の方々と対話を通じて、深められてきました。そこで交わされたことばのやり取りや思想の断片を5つの視点から切り取り、より深めていきます。連載の第1回は、「あそびとまなび」の視点からお届けします。

 

構想の対話パートナー

  • 医師:守本陽一さん
  • 人類学者:石倉敏明さん
  • 文化活動家:アサダワタルさん
  • 前應典院アートディレクター:小林留音さん
  • 教育哲学者:弘田陽介さん
  • 元應典院主幹:山口洋典さん
  • 現代仏教僧:松本紹圭さん

 

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「今から20分、ここで好きにあそんでください。何をしてもいいのよ」

これは、過去に受講したデザインの授業を受けたときに、アーティストである講師から課された授業内のエクササイズ。

「あそべ?なにすればいいんだ?」と、最初まったく体は動かなかった。そうこうして時間が経ち、全員で感想をのべた。とある学生は「不快な時間だった」と言い放った。私たちは不快だと感じるくらい、あそべない身体になっている。

こうしたあそべなさは、教育哲学を専門にする弘田さんが述べた「アフォードされる身体」論に通ずる。アフォーダンスとは、単純化していえば自身をとりまく環境にあるさまざまな刺激によって行動が誘発されうること。椅子がここにあるから、こう座ろうといったように。問題なのは、それが極端にすすむと「Google mapを使って目的地にいこう」から「Google mapなしには歩けない」体になることだ。フラッと寄り道もできなくなる。目的ありきの環境刺激に支配され、あそべなくなる。

生き延びることに重きが置かれ過ぎ、パンデミック禍では、「不要不急だから」とライブも展示も宗教的な集いも制限されたことは、あそべない時代の象徴だ。あそびはこのように、ふまじめなことにも捉えられるが、改めてあそびとはなんだろうか。この問いは、教育の問い直しにもつながる。

では、逆に教育からかんがえてみよう。教育、学習、まなび。これらをどのように考え直しながら、あそびを位置付けられるのだろう。

アクティブラーニング時代の”教育”の意義としての、倫理的な主体化とは

教育とはそれぞれの段階で育ちつつあるものに対する適切な刺激であって、芽に対してのちょうど良い光や水のようなものだ。ただ、これが公教育の現場ではなかなか実現できない。先生も忙しい。結果、最大公約数的に実践され、それに適応できない子どもも当然いる。

改めて教育やまなびの意義とはなんだろう。オランダの教育哲学者・ビースタは教育の意味を「資格付与」「社会化」「主体化」の3つだと説いた。資格付与とは、英語検定や経済学の修士号を取ったなどの学歴。社会化とは、他者と波長を合わせるような協調的な態度や能力。これらはある程度は必要である。社会性がないと困る。

一方、他者にあわせる・資格を重視することが、極端に進めば「能力主義」の問題につながる。能力主義とは、個人の能力の優劣が唯一のものさしとなる。できるか、できないか、だ。その際、一人一人が生まれ育った家庭環境、例えば大学に通えるだけの経済的余裕といった背景は考慮されず、結果「個人が努力しない自己責任」になっているのが現状だ。近年では、親が子どもに提供できる自然のふれあいや読書などの「体験格差」という言葉も見受けられる。これは近代教育の悪しき側面であることは否定できない。

そこで、教育の意味を改めて照らしうるものはなにか。「倫理的な主体化」にその光がある。倫理的とは「自分がどのような人間になるのか」といった一見途方もないくらいに大きな問いと結びつく。どういうことだろう。

誰しもに、こんな瞬間は思い当たる節があるのではないか。バスで少し席が遠かったから譲れなくて自分が情けなくなる。はたまた、死の喪失と痛みを前になんて声をかけていいのか分からなくなる。目の前の相手や状況に果たして「どうふるまえばいいのか」も方向価格を失い、身動きが取れなくなる。その状況に、その場で答えられなくとも、時間をかけて自分が納得いく答えを出す、そんな主体になっていく。それがビースタの説く、真の意味での主体化だ。

みずからとおのずからのあわいをつなぐ「あそび」と「想像力」

その「自立していない不完全さ」をありのままに受け入れるとは、すでにわたしは「なにものかである」と受け止めることだ。その反対には、未だ不完全な状態から「何者かになる」ゴール志向の教育がある。近代では、そのゴールは完全に自立的な人間像だった。これは、仏教的世界観としての「おのずから」と「みずから」の対置にも近い。

おのずから、とは本来的であって、そのままに秩序があること。俗にいう自然体だ。みずからは、何かに向かってい変わっていく様を表し、意図的な動きや努力も切り離せない。しかし、今の社会でただありのままに生きるわけにもいかない。自立的になにかを志向していきながら、委ねることをバランスよく両立させる。そんな「みずから」と「おのずから」のあわいに、人間の生を見出すことが重要だ。

弘田さんはカントを参照しながら、このあわいをつなぐために必要なものに、美的な構想力で遊ぶことを挙げた。美とは、「ルールがないところで、何かを判断する能力」であって、構想力とは別の見方で現実をとらえる力。つまり、目の前の因果で張り巡らされた現実から少し離れて、ルールや秩序を宙吊りにして「別の現実があるかのよう」に、考え、ふるまい、生きる態度。まさに「あそび」そのものだ。

そのあそびが、どのように倫理的な主体化にかかわるのか。ルールがないところで、その状況に「応答する」ことが、あそびだ。近代的な主体は、先にのべた「アフォードされる身体」をつくりあげた。合理的な主体を念頭に、”みずから”の力でなんとかする個人像のこと。一方で、それだと「どうふるまえばいいのか」わからない状況に遭遇したときに、身体は固まってしまう。その硬直化した身体を時ほぐすのが、あそびではないだろうか。「かのように」いろんな現実の可能性のなかで、ルールも手がかりもないままに動き続けられるようになる。

思うままにふるまい表現するあそび、仏の慈悲としてのあそび

「近代的主体になる」ことに重きが置かれ息がしづらい現代、社会が求めるのは「かのように」ふるまい、あそべる場だと信じたい。

それは、決して自分がただ心地よければいい、といった自己の欲望を満たすあそびではない。仏教思想におけるあそびを考えると「遊戯」という言葉に出会う。仏のあそびとは、自由自在、心の思うままに人を救うこと。仏は、人を助けずにはいられない。仏にとっては慈悲の実践こそがありのままに生きることであって、あそぶこと。

人は、あそびのなかだけで、真に自由になれるのかもしれない。制度に縛られた学校は窮屈で、遊園地やテレビゲームはどこか虚しさを孕む。子どもたちのごっこあそびが教えてくれるように、あそびは他者との生きたかかわりの中で、「当たり前の社会とは別の世界」をつくりあげる中にある。

お寺は昔からアジール(無縁)とよばれ、俗世間とは別の価値軸を持つ異空間だった。そこでは秩序や常識からいったん離れて、仏の絶対慈悲の元でありのままが受け入れられてきた。

白川静さん『文字逍遥』によると<遊>という字義は、<道をいく>ことを表すしんにょうと、<旗を掲げる子ども>から成る字だという。そして、この旗とは一族=祖先の旗。つまり、祖先が見守ってくれいてるから、安心して普段の秩序と異なる異界へふみだせる、。まさに、たくさんのお墓とご先祖さま、そして仏さまが位置している應典院にふさわしい字だ。お寺だからこそ、あそび、異界へ通ずることができる。

不確実で傷つきやすい現代は、子どもたちですら周りの目を気にしがちで、思いのままにふるまいづらくなっている。自然体であそぶ姿。その姿に、大人たちも触発され、少しずつあそべるようになっていく。自分の内側にうずまくものを発露させられるような、応答できる身体をはぐくんでいく。ありのままに表現しあえる「あそび」から、互いにまなび、育っていく。それが、倫理的な主体形成にもつながっていくのではないだろうか。そして、外側の他者へと働きかけられるようになる。

あそびの精舎は、ただ人の気づきを促す場所ではない。その気づきをもって、少しだけ自分を変えていけるような場所。それが、倫理的なふるまいをその状況ごとにふるまえるようになることかもしれない。家族の関係に対して少し働きかけてみる、といったように。社会が変わる、とはそうした小さな積み重ねではないだろうか。

そんな場所が、これまでの應典院が取り組んできたことの現代的な意義であるし、これからの場の中核としても改めてふさわしいと思う。

 

人物(五十音順)

弘田陽介
(大阪総合保育大学准教授)