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あそびの精舎を深める5つの視点ーー#3「ケアとコンパッション」

あそびの精舎を深める5つの視点ーー#3「ケアとコンパッション」

 

1997年にリニューアルをした大阪・下寺町の一画にある開かれた寺・應典院は2024年4月から、「あそびの精舎」構想を掲げた再始動をします。本構想は、子どもからお年寄りまで多世代がつどい、あそびから、いのち・生き方・暮らしといった「ライフコモンズ」を育むことを掲げます。だれもがわたしを生きられ、互いに思いやりあえる、そんなコミュニティをを目指して活動します。

 

https://asobi.outenin.com/

 

本連載「メイキング・オブ・あそびの精舎」では、この構想に込められた想いや背後にある哲学、私たちの目指したいことを5つの視点から紐解いていきます。この構想は、多様な識者の方々と対話を通じて、深められてきました。そこで交わされたことばのやり取りや思想の断片を5つの視点から切り取り、より深めていきます。連載の第3回は、「ケアとコンパッション」の視点からお届けします。

 

構想の対話パートナー

  • 医師:守本陽一さん
  • 人類学者:石倉敏明さん
  • 文化活動家:アサダワタルさん
  • 前應典院アートディレクター:小林留音さん
  • 教育哲学者:弘田陽介さん
  • 元應典院主幹:山口洋典さん
  • 現代仏教僧:松本紹圭さん

 

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ケア、ということばを耳にする機会がふえてきた。医療や福祉といったイメージもつよいワードだが、果たしてケアは医療者や福祉従事者に閉じた話ではないと感じる。

 

「いまは制度やサービスに基づいた医療や福祉になっています。そのとき、各サービスや制度の「すきま」が問題になる。また、あるサービス範囲を超えて、目の前の他者に何かしてあげよう、といった思いやりがなくなる懸念もありえます。」

 

と、まちの私設図書館・だいかい文庫を運営している医師の守本さんは問題意識を共有した。お店番として住民の方や医師・看護師がいたり、相談窓口を設けて医療者に気軽に悩みを相談できる。ケアできる人間関係のきっかけが、まちや暮らしの中に染み出している。

 

一般的に、ひとが病院にいくのは、こころやからだが優れなくなってからだ。それは食習慣や人間関係、労働の負担や孤独感…といった暮らしの中での負の原因の積み重ねがあらわれとなった結果である。しかし、病院は日常的に足を運ぶ場所ではないため、未然にそれを解消するに至らない。だからこそ、より日常の接点にちかい図書館というかたちが重要となる。

 

都市には、少しの悩みや生きづらさ、不安を気軽に話しあったり、さらけだせる場所はなかなか少ない。なぜだろうか。現代人は、強くあることが求められている。近代的な主体化教育は、合理的にひとりで意思決定できる自立的主体を想定した教育体系だ。そこでの自立、とは文字通り自ら立つことであって、他の存在によっかかることは不完全だとみなされる。そして「ケア」が必要な存在だとして、押し込められる。

 

高齢者、障害者、子ども…ケアの対象には、社会的に弱者だというイメージが付きまとう。それは、自立した個人が良き個人像として想定されていることの裏返し。だから、人によっかかるのではなくて、守本さんが問題だと述べたような「制度への依存」が支配的になる。ただ、それではスキマにこぼれ落ちるものが多くある。

 

五木寛之は『他力』のなかで「人間はただ無為に生きるだけでも大変なこと」だと書いている。私たちは、生きるだけでも、すごい。いつの間にか、仕事や経済的価値だけでなく社会的にいいことをしなきゃ、とプレッシャーを抱える自分がいる。過程を楽しめるときもあれば、こころが持たなくなって体が動かなくなる、そんな脆い自分がいる。人は揺らぐ存在であり、そんなときに「生きているだけですごい」という言葉がもつ力に、励まされる。

 

浄土宗は、「弱者救済」が語られてきた。切実な問題を抱えたひとたちを救済してきた。現代において、子どもたちや、終末期、病に伏せる人々、元気な男性かつ大人中心の社会から、そうした弱い立場の人たちにどうやってひらかれていくのか。同時に、浄土宗は愚者の自覚を大切にしてきた。人は簡単に、欲望に囚われ、見たいものだけを見て、自分勝手にふるまってしまう。がんばろうとおもっても、がんばれない。誤りばかりの人生だ。そんな愚かさを自覚することから始まることがある。

 

應典院は、アジールを長らく目指してきた。アジールとは、中世・近世でいう無縁所だ。網野善彦の『無縁・公界・楽』に詳しいが、江戸時代には駆け込み寺のように、表社会では支配の関係にある立場や権力も、あるお寺にいる間は無効化できてしまうような逃げ場があった。これを無縁所とよんだ。無縁とは仏の絶対慈悲、つまり阿弥陀仏がだれも分け隔てず救いを差し伸べることを指す。こうやって、外側の社会の当たり前から少し距離をおき、救われる場所としてのお寺がある。

 

誰もが、ひとりで立てるほど強い存在ではないし、愚かな過ちばかりの存在だ。だから、複数の依存なしでは生きられない。仏さまの救いを求めることだって、そうした依存先のひとつだ。それだけではなく、日々の中で助け合える関係をとりもどしていくこと、それも重要。エバーフェダー・キティは、ケアを相互依存のロジックと捉えた、そう弘田さんは話してくれた。その相互依存関係が、都市に必要なのだ。

 

人の願いを育みあう、都市の文化装置とケア

 

一説によると、ケア/careと文化/cultureの語源は、ともにラテン語の coloreだという。ここには、手をかけて耕す・はぐくむことの共通項がある。ケアは、単に支援したり、気にかけることに閉じない。

 

應典院の二代目主幹である山口さんは、これまでの應典院の歩みを語ったさいに、秋田住職が掲げていた『新しい都市の文化装置』のテーマを引き継いだと語った。文化を育むための媒介としての應典院だ。

そんな山口さんによると「文化とは規範」だ。規範には「XXXしてはダメだ!」禁止事項やルールといったイメージがある。しかし、何をするのがよいふるまいであり、何はよくないのか。そうした価値の共有から生まれる、ふるまいのコードが規範だ。以前スタッフさんも「應典院に入ってきたら、手を合わせてほしい」と話をしていたが、この自然と手を合わせて見えないものに瞬時の願いや感謝を届ける所作も規範であり、それが文化でもある。

文化cultureとは耕すものだ。土の状態をみて水をやったり、やりすぎてもダメであったり。自然農では雑草も重要だが、雑草が生えすぎてはダメであったり。間引くのが遅すぎると、十分に育たなかったり。気にかけて、手をかけ続ける必要がある。

この場で育っていくものは、人の精神的な発達や営みだ。育つためには、種がいる。種とは、おおくのひとが持ちよる「願い」だ。この場に来た一人ひとりが願いを持ち寄り、互いに気にかけあってその願い/思いを育くむ。その過程で、何がよいのか・よくないのか文化も育つ。こうした庭のような場所が、應典院だった。

願いを分かち合える場所は、冒頭の、生きづらさや悲しみが分かち合える都市のスペースと重なる。両者ともが、ひとびとのこころのケアになっていく。そして、願いを集う人同士で育み合うことで、日常の中でのケアしあう関係と文化が育まれていく。

 

コンパッション・コミュニティに向けて

「あそびの精舎」構想では、ケア・アート・まなびを3つの活動軸においているが、それらはすべて「あそび」の営みでもある。あそびから、わたしを生きられ、互いに思いやりあえる。その関係性やつながりを総称して「コンパッション・コミュニティ」と呼んでみる。

 

コンパッションとは、簡単に翻訳するのはむずかしいが、「共苦」といったニュアンスがちかい。苦しみをともにする、といった意味だ。conはともにする、passionは受難や苦しみを意味する。つまり、他者の苦しみを自身も請け負う。どちらかが、どちらかに一方的に何かをするわけではなく、上の立場から手を差し伸べるわけでもない、水平的な関係。

 

コンパッション・コミュニティは、公衆衛生やエンド・オブ・ライフケアを専門とする研究者アラン・ケレハーが提唱した。近年邦訳された著書『コンパッション都市』にも詳しい。

 

ただ、ここでは日々の生きづさらや死の喪失や苦しみだけでなく、歓びをともにする(convivial)ことも含まれていいはずだ。それは、思いやりにあふれた支えあいの地域であり、仏教的には慈悲によるまちづくりともいえる。

 

生まれてから死ぬまで、生老病死の苦しみや悲しみ、また親ならではの葛藤や若者の生きづらさ、子どもたちの不安やストレスなど、それぞれが抱える「苦」をわかちあえる依存先が、都市のあちこちに存在すること。

 

それと同時に、子どもであっても、親であっても、高齢者であっても、じぶんを世代や肩書きでとらえるのではなく、ありのままの自分として表現できるひと、あるいはそのインセンティブとしての場や活動、働きかけが無数にあふれている。すべての表現に対しリスペクトを贈ること。

 

それらを総体として、手垢がついてしまった「共生」ではなく、本当にともに生きていくとはどういうことなのか。それを問い続ける場所こそが應典院である。