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あそびの精舎を深める5つの視点ーー#5「グッド・アンセスターと死生観」

あそびの精舎を深める5つの視点ーー#5「グッド・アンセスターと死生観」

 

1997年にリニューアルをした大阪・下寺町の一画にある開かれた寺・應典院は2024年4月から、「あそびの精舎」構想を掲げた再始動をします。本構想は、子どもからお年寄りまで多世代がつどい、あそびから、いのち・生き方・暮らしといった「ライフコモンズ」を育むことを掲げます。だれもがわたしを生きられ、互いに思いやりあえる、そんなコミュニティをを目指して活動します。

 

https://asobi.outenin.com/

 

本連載「メイキング・オブ・あそびの精舎」では、この構想に込められた想いや背後にある哲学、私たちの目指したいことを5つの視点から紐解いていきます。この構想は、多様な識者の方々と対話を通じて、深められてきました。そこで交わされたことばのやり取りや思想の断片を5つの視点から切り取り、より深めていきます。連載の第5回は、「グッドアンセスターと死生観」の視点からお届けします。

 

構想の対話パートナー

  • 医師:守本陽一さん
  • 人類学者:石倉敏明さん
  • 文化活動家:アサダワタルさん
  • 前應典院アートディレクター:小林留音さん
  • 教育哲学者:弘田陽介さん
  • 元應典院主幹:山口洋典さん
  • 現代仏教僧:松本紹圭さん

 

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“2100年の未来”と聞くと、とても先のように感じる。ただ、よく考えると「人生100年時代」の現代、2000年頃に生まれた子どもたちは、2100年を迎えるかもしれない。2020年に生まれた姪っ子は、2100年には80歳。その途端に2100年がリアリティを帯びた。

 

その少し手前、2050年は今から27年後、そう考えると意外にすぐだ。2050年には小麦や米の高騰で価格は2-3倍になり、世界的な食糧危機が危ぶまれ、海では魚よりゴミが多くなるだろう、と予測される。環境問題だけではない。2040年の日本社会は、年間で168万人、1日に4600人が亡くなる「多死社会」の到来だと言われる。
※厚生労働省が発表した2020年版の「厚生労働白書」

 

私たちは未来において、多くの不安も感じるが、多くの負の遺産を残す可能性もある。それでも、今の暮らしをなかなか変えられない。4年ごとの選挙、4半期ごとの数字を追う仕事、数分おきにくるアプリの通知に、1秒単位の株式…目の前のものごとに囚われる。

 

これに対し、近年広がりを見せる『グッド・アンセスター』という思想がある。現代人は、未来からみたら、祖先にあたる。では、いかに未来の子孫に恥ずかしくないように、よき祖先としてふるまえるだろう。そのために、都市のお寺は何が担えるのか。

森の全体的な知性を都市につなぐ、ミニチュアの山としての寺から、よき祖先の可能性をひらく

『グッド・アンセスター』を邦訳した現代仏教僧の松本紹圭さんは、お寺の二階建て論を解いている。二階は、今を生きるひとが生き直すための機能を担う。たとえば、瞑想や内観。これは、應典院がこれまでやってきた、アートプロジェクトの営みに通ずる。
反対に、一階は伝統的な先祖仏教を担う。過去に生きた先人に想いを馳せるような場だ。この一階・二階の接続が大切。先人や祖先に向き直ることで、過去からの時間の流れの中に自身を位置付け、自ずから未来の子どもたちへ目が向きはじめる。

今回の構想は、多世代が交流する拠点にしていきたい。應典院では、多世代が出逢いながら、そこに祖先もふくみこまれ、過去と未来が今ここにあるような場を営んでいきたい。ただ「未来世代」や「過去の先人」は、なかなか具体性がなく想像がしづらい。ゆえに多世代が目の前に顔の見える関係として、あらわれることに意味がある。加えて、過去や未来の円環的なめぐりに加えて、自然生態系とのつながりからあり方を見つめることも大切だ。

元々、都市のお寺は、山間部のお寺のミニチュアとしてつくられました。比叡山も高野山もしかり。それは、都市と山をつなぐためです。人間を超えた場であることが寺のルーツですが、山はまさに超越的な場。都市の外には森や山が広がっていて、別の論理が生きています。

それらをつなぐことで、生と死がひとつであるように二元論を超える知性をつくる。つまり、都市の価値観を「別の知恵に変えていくシステム」として寺が機能していた。ワイズフォレスト(知性ある森)としてのお寺です。

こう語るのは、人類学者/神話学者の石倉敏明さんだ。よき祖先になるには、この人間を超えた場が需要になる。それは、合理性に縛られた都市の近視眼的ロジックを超える別の論理が必要だから。別の論理とは、合理では説明しきれない知性だ。

森や山では、生と死が一連なり。死は、生に反対するものではない。生きるためには、死が必要だ。森で死んだ動物は微生物の餌となり分解され、土に還る。それが土の養分となり、樹木や植物をはぐくむ。その植物がまた、動物たちを生かす。

都市生活では死から離れてしまい、この大きないのちのなかに自分が生きている、そんな実感は薄くなった。死はネガティブなものとして忌避される。それに対して石倉さんは、これからの手がかりは、山に生きる人々の知性にあると語った。

便利なスマートフォンや自動運転の車、それらの部品はどこかしらの自然から調達または収奪されていますね。そうしたいのちをいただいている。それを考え直すために、山に入っていのちをいただくマタギの知性や、山に入って生まれ直す身体実践をする山伏のような知恵から学ぶことが、手がかりになるのではないでしょうか。

松本紹圭さんも、大きないのちに気づき、生き方を見つめ直し、暮らしの営みをともに行う「ライフコモンズ」というコンセプトを受け、以下のように応答した。

「ライフコモンズが、應典院を拠点に都市にひろがっていくことは大事ですね。ただ、都市だけで完結はしないのではないでしょうか。生きる、死ぬ、を考える上で水や空気や食物があって、それも含み込んでいく思想になるとしたら、都市から森や山々につながっていくような外縁を含み込むことも大切です。」

死への想像力を修復するためのアートと、生老病死を正面から扱う都市寺院の可能性

應典院は、アートをキーワードにおいて、活動を展開してきた。石倉さんも「衣食住から生老病死へ、といった広い視座へすすみだしているアーティストは多い」と述べながら、以下のように寺院の可能性を語った。

美術館では、死といったテーマはなかなか扱えません。美術館も地域にひらき、多様な知がまざりはじめていますが、扱えるテーマに限界があります。だからこそ、美術館を超えた場所として、お寺を再発見していくことは大きな可能性です。

そのために、宗教がかつて担ってきたものを、今どんなかたちで改めて作り直すのか?それを翻訳する言語を人類学は培ってきたし、アーティストも関心をもちはじめている。ただ、ことばを平易にしながら、子供も大人もアーティストも学者も対話できる、そんな場をつくっていけたらいいですね。

日本全国には75000もの寺がある。それはかつてローカルを支えた文化資本だった。しかし、「お寺は日本人への死や生の想像力の減退や死の物語の消失とともに、寂れてしまった。その想像力こそが危機なんです。だから、この死への想像力をアートで回復していくことを目指したい」と、秋田住職は石倉さんに応答した。

失敗も生きづらさも笑い飛ばせる場所から、よき祖先への道をあゆむ

よき祖先になろう、未来世代を思いやろう。言うのは簡単だが、目の前で不安や生きづらさを抱える現実を直視したとき、「未来のため」の余裕はななく、先の見えない経済的・精神的な不安をひとりで背負う。それに呼応するように松本さんは、こう語った。

 

「グッドアンセスターの文脈は、失敗学にもつながります。卑近な例でいえば、祖先は未来につなげるためにも木々を植えたけど、スギ花粉で苦しむ現代人は多い。でも、スギを植えた先人を恨むことはないですよね。過去の先人たちの失敗も、グッドアンセスターへの道になる。失敗や大変さ、この時代にこれをやってもうまくかなかった。こんな不安があった。その全部が、ナラティブとして語り継がれることで未来の子孫が学ぶことができたら、それもよき祖先への道ではないでしょうか。」

 

私たちは、社会的なことを気にしすぎると動けなくなってしまう。しかし、「弱さって、普通にはなすだけではシリアスでつらい。でも、笑いのまちだからこそ、吐き出しても笑い飛ばせるのでは」と松本さんは言う。大阪は、歴史的にも、遺棄された弱者のまちだった。それが浄土宗をひらいた法然の思想にもつながった。應典院も、浄土宗の仏教寺院だ。そんな土地と歴史の文脈が全て、つながってくる。

 

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ここまでの話を受け、私たちは、いかによき祖先となることができるのか。そこでいう祖先とは、未来の子どもたちだけでなく、森や海、川、それぞれに住む生きもの。すべてにとっての祖先である。

挑戦者の失敗談も、未来の糧になるし、不平不満や生きづらさも笑いとばすことで、今を生き直せる。今を思うままに生きられれば、その生き様はおのずと未来にもつながっていく。よき祖先になる、とは失敗や生きづらさを表現しながら、森も川も海も子どもたちも祖先もふくんだ関わりに身をおき、今をともにあそぶこと。

それは、大阪という土地、ひいては祖先も仏も見守る、超越的な場という寺院だからこそ、担えるのではないか。