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あそびの精舎を深める5つの視点ーー#4「いのちとライフコモンズ」

あそびの精舎を深める5つの視点ーー#4「いのちとライフコモンズ」

 

1997年にリニューアルをした大阪・下寺町の一画にある開かれた寺・應典院は2024年4月から、「あそびの精舎」構想を掲げた再始動をします。本構想は、子どもからお年寄りまで多世代がつどい、あそびから、いのち・生き方・暮らしといった「ライフコモンズ」を育むことを掲げます。だれもがわたしを生きられ、互いに思いやりあえる、そんなコミュニティをを目指して活動します。

 

https://asobi.outenin.com/

 

本連載「メイキング・オブ・あそびの精舎」では、この構想に込められた想いや背後にある哲学、私たちの目指したいことを5つの視点から紐解いていきます。この構想は、多様な識者の方々と対話を通じて、深められてきました。そこで交わされたことばのやり取りや思想の断片を5つの視点から切り取り、より深めていきます。連載の第4回は、「いのちとライフコモンズ」の視点からお届けします。

 

構想の対話パートナー

  • 医師:守本陽一さん
  • 人類学者:石倉敏明さん
  • 文化活動家:アサダワタルさん
  • 前應典院アートディレクター:小林留音さん
  • 教育哲学者:弘田陽介さん
  • 元應典院主幹:山口洋典さん
  • 現代仏教僧:松本紹圭さん

 

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「孤独はタバコ15本分もの害悪になりうる」

 

豊岡市のまちの本屋・だいかい文庫を拠点に活動する医師の守本さんは、そう教えてくれた。一方、孤独は必ずしも問題ではない。独りになる時間は大事だ。ただ、日々、周囲とのつながりを実感できている中での孤独に限る。

 

問題は都市での行き過ぎた個人化ではないだろうか。土地の歴史や物語は、地域の住民でどれだけ分かち合い共有している感覚があるだろう。子育てや介護といった暮らしの営みすべては、個人の負担と自己責任になった。

 

それだけではない、大阪では一年に3000人が孤独死でなくなる。多死社会は目の前だが、孤独死は多い。村的共同体の時代、死は共の営みだった。名前も顔も知っている地域の人が亡くなれば、コミュニティの中で供養され、死に接する経験が身近に起こる。それは、自分自身の死と生がゆさぶられる契機でもある。都市部ではいま、他者の死に触れることはほとんどない。

 

そうした営みは概ね、行政の公共サービスや民間企業=市場に外注された。そして、消費者としての個人が際立つようになった。私の領域から、ともに在ること、暮らしを営むことができる共の関係を育てていく重要性が、消費者ではなく生活者のわたしとして生きる上で、高まっていると感じる。

 

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ただいることができ、ことばを交わし、つどえる場所は都市になかなか少ない。しかし、結局は人々が営む暮らしは、場と関係に根ざす。そんな場所において、守本さんは名前を呼びあえたり、久しぶりだねと声をかけあえたりと、「気にかけられている」感覚が育つこと重要だと話した。その些細なやりとりから「ここなら居てもいいんだ」と受け入れられる感覚が生まれる。それが体感できて、「自分でも他者を気にかけていく」ことができるようになる。

 

排除性と限界を引き受けながら、場をまちに複数化していく。その中で、それぞれの居場所のユニークネスを。

気にかけあう関係性があって、初めてそこが居場所”化”する。しかし、ひとつの場所には、つねに一定の雰囲気や空気ができる。「誰でもにひらかれている」といっても、必然的に排除は生まれてしまう。應典院であれば、お寺や仏教を立たせると、関心ない人は来ない一方で、フェスティバルを打ち出せば、お祭り騒ぎが苦手な人たちは足を運ばない。

 

「誰でも排除されないって言葉では簡単だけど、ある種のモダンな整った空間ゆえの難しさも常々自分たちを苦しめてもきた。」

 

こう語る應典院の元主幹・山口さんの問題意識にも通ずる。應典院の建築、作ってきたイメージ、それらが排除や対立を生み出してしまう葛藤もあった。その対話の中で、スタッフの沖田さんからの想いも現れてきた。

 

「たとえば、酒癖悪いおっちゃんがきたら追い出すかも..なんてよぎったこともあるんです。お寺であり、子どもたちも足をはこぶ場であれば、だれでも完全に許容はできない線引きはあるはず。でも、同時に多くの人が痛みや悲しみを抱えている時代だと思う。應典院は、だからこそ痛みを抱える孤独な人たちもただ居られる場になってほしいんです」

 

理想を一夜でかたちにはできないし、最大限の努力が必要だ。ただ、ひとつの場所だけで全て満たすことを手放したやり方もある。守本さんとの対話から見えた像は「こうした場所が地域にどのくらいあるのか」の重要性だった。つまり應典院だけで、全員を包摂する場として成立する必要はない。應典院を拠点に、地域に点在するさまざまな地域資源や、他の場機能を持ち合わせる場と人々へつないでいく。應典院では救えないかもしれない人を、他の場所で包摂しながら思想を都市に拡げるような、水平的なスケールへの道筋でもある。

 

障害者施設にも、図書館にも、それぞれが培ってきた文化と場の独自性がある。それらが連なることで、個人としては、自分のノリがあうところを選べたり、状況に応じていくつもの依存先が存在するようになる。

 

では、そのなかでアートや演劇の活動の蓄積と、死生観形成に取り組んできた歴史をふまえながら、アートセンターやコミュニティスペースでなく「お寺として」の應典院は、どんな場所たりえるのだろう。

日々のあそびから、いのちをはぐくむ。應典院は、”ライフコモンズ”の拠点へ

 

だいかい文庫で店番をやっていると、障害者の方はじめこれまで出逢えなかったいろんな方にであいます。そしてゆるやかに長く関わるとみんな変化があって。親が認知症になってどうしようという方や、介護の問題を抱えはじめる人が出てきたり。そこで、つながりの有り難みを感じるんです


顔の見える、名前の呼び合える、気にかけあう関係ができると、こうした際に「じゃあ、どうしていけるか一緒に考えようか」といざ助けあうこともできるのではないだろうか。

 

「コモンズ」ということばがある。ひとりが所有するのではなく、わかちあったりみんなで手をかけ維持する財産や、共有しあえる場所のことだ。たとえば、 水・木・空気・川・海といった自然、道路・エネルギー・上下水道などのインフラ、教育・公衆衛生・介護などの文化制度、ビジョン・データ・過去の記憶、知恵などの無形のものもふくまれる。

 

「あそびの精舎」構想には、これまで應典院が行ってきたコミュニティ・ケアとしての終活・弔いの共同体・まちの保健室にあつまる高齢者、新たに仏教教育とSTEAM教育を柱として立ち上げる学童スクールにくる子どもたち、そしてパドマ幼稚園にかよう幼児や子育て世代。

 

生をこの世に受けた子どもから、死を間近にしたお年寄りまで、いろんな世代が入り混じる共存の場でもある。そして、気にかけあえる。ゆえに、安心して思いのままにあそべる。そんな日々の関わりから、コモンズが育まれていくのではないだろうか。

 

仏教は、他と関係しあって共に存在し、「一切衆生によりて共生す」と説いてきた。それは自然を畏れ、祖先を気遣い、子孫を思いやる悠久の時間 (Deep Time) を基盤に据えた「共」のあり方。仏教におくいのちとは、祖先・子孫、山川草木、生きとし生けるものすべてがつながりあい、紡がれる織物のようなもの。その媒介拠点こそ、寺が担える場のあり方ではないだろうか。

 

それは、過去の先人から未来の子どもたちまでの世代と、自然のめぐりあいの両方から、おおきないのちに気づくコモンズであり、子育てや介護、看取りといった暮らしの営みを支えあうコモンズであり、それら通じて一人ひとりが生き方を見つめ直すコモンズだ。そんな共有の場を「ライフコモンズ」と名付けてはどうだろう。その拠点に應典院を位置付けていく。

 

ただ、あくまで應典院は拠点だ。
そこでの関係性がまちに染み出していくことが重要だ。人類学者の石倉敏明さんは、秋田の文化創造館が参考になると例をあげた。元々は美術館だったが、今は文化を軸にしたパブリックスペースとして機能している。その再生を機に、文化創造館の裏手には、木のおもちゃを作って、手足を動かすあそびを大事にしているおもちゃ屋ができ、その2階には学童ができた。石倉さんのお子さんも通っているそうだ。さらにその上の階には、アーティストがレジデンスとして滞在するスペースが生まれた。

 

同様にライフコモンズの拠点だった應典院から、その周りに、多様な機能や場所がポコポコとでき、それらがつながりあえば、コンパッションに満ちたコミュニティの都市生態系が拡がっていく。都市にはさまざまなプレイヤーがいる。役所や学校や病院など公共的な機関、商店街、自治会、まちづくりNPOなど地元に根ざした民間/市民活動団体。街を彩るアーティスト、また子どもや高齢者を支えるエッセンシャルワーカー。立場と役割を超え、應典院を”のりしろ”として、「あそび」を生み出していく。都市にだって森はある。川がある、海がある。自然コモンズのあそびの場を広げていくことで、自然といういのちからまたまなび、変わる。

それが、今後めざしていきたい、大きな方向性ではないだろうか。