
【開催報告】あそび精舎フォーラム『「対話」は、いのちを救えるか 〜生老病死とコンパッションコミュニティ』
去る10月25日に、あそび精舎フォーラム『「対話」は、いのちを救えるか 〜生老病死とコンパッションコミュニティ』を開催、本堂は満堂となりました。3名のゲストの活動紹介とセッション、会場での意見交換が繰り広げられ、3時間の濃密な時間を過ごしました。「ケア」「対話」「共創」をキーワードに、「コンパッションコミュニティ」を考察していくことができました。
このたびは、当日のレビューを、日頃よりお世話になっている訪問看護ステーションさっとさんが願生寺應典院の看護師・渡邊 真由美さんよりいただきました。
コンパッション・コミュニティという言葉をはじめて聞きました。
コンパッション=共感・思いやり・慈悲。一時期、生と死は病院の中でその物語を完結する時代でしたが、近年は在宅医療や在宅サービスも進み、家族や地域社会で<おたがいさま>でいのちを紡ぐ時代になりつつあります。
コンパッション・コミュニティを実践しておられる3人の方からの貴重なヒントをいただき、いのちをめぐる対話について考えました。

緩和ケア医師の森一郎先生からのヒント。グリーフケアは以前は地域で主体的に行われていたが、近年では医療技術の問題になっている。日本は社会的孤立者が28%で世界トップという調査結果もあり、家族を亡くされ孤立してしまった遺族は社会から取り残されてしまう。地域社会にコンパッション・コミュニティを広めていくため、各地でがん患者・家族・遺族に語りの場を提供しておられます。医師として診療されるだけでなく、その先の生活を地域で支えあおうという活動が素晴らしく、パワーをいただきました。

がん当事者であられダカラコソクリエイト発起人の谷島雄一郎さんからのヒント。がんを抱えたことによる悩みは病院でなく日常にある。医学の進歩で命は延び、がんは病院から社会の問題となった。がんになったからこそ見えた景色がある、それはだれかを幸せにする価値になる。対話が共創を生み、共創が活動を生み出す、事実は変えられないが意味は変えられる。死ぬにしても<生きた証>がほしい、生きるにしても<生きがい>がほしい。
当事者が、生きづらさをカジュアルに語り合うバーを開き、コミュニティを展開されています。医療者である私としては、谷島さんからの『わかってほしいがわかってたまるか、ほっといてという裏腹な気持ち。人はでこぼこは自分で解消している。』というお話に、医療現場でのACP会議には、ある種の医療者の自己満足が存在しているのではないかと考えさせられました。

お寺を地域の居場所としてコミュニティの場を提供し、フリースタイルに様々な活動をされている大河内大博住職さんからのヒント。大河内さんのはじめられたコミュニティが徐々に地域に浸透し、地域の方が主体となって活動されるようになり、住職の活動が地域に根付いてこられているということなのだろうと感じます。「コンパッション=おたがいさまのおせっかい」と訳される住職の温かいお人柄を感じました。コミュニティという場は複雑で様々な人と思いが溶け合って変化し成長するもの。運営する難しさも感じられましたが、お寺という地域の居場所がもつ可能性をまだまだ広げていこうと、静かな語りの中に目標に向かわれ切り開かれる信念を感じました。

終盤には、会場のお近くの方とグループになっていただき意見交換を行いました。渡邊さんのほかにも、医療や福祉のお仕事をなさっておられる参加者の方も多く、それぞれが自分自身の歩みと今回のお話を照らし合わせて考えられたことをお聞かせいただきました。「病院内ではあきらめるしかなかった方面への希望や可能性を感じられた」「やはり地域との接点や居場所づくりが大切だと思った」「共創ということが特に印象に残った。対話というと身構えてしまうが自然体でいこうと思った」「気に掛ける利他の精神、大切ですね」「等価交換で考えてしまう消費社会の中で育ってきた我々の意識を変えていけねば」などのご感想をいただきました。
長時間にわたるフォーラムとなりました。ご参加くださった皆様、本当にありがとうございました。
