2018/7/12 北村敏泰:特別寄稿 「應典院再建20周年記念シンポジウム」を読み直す(後編)
芸術、文化、学術や社会問題に関する様々な催しなどに取り組んで来た都市型寺院の應典院。その再建20周年を記念したシンポジウムが3月2日に開かれ、地域社会の拠点としての應典院の歴史を通してこの間の社会と宗教界との関わりの推移が論議された。
スピリチュアルケアや病院でのチャプレン活動に従事して来た浄土宗願生寺住職の大河内大博さんは、同院で繰り広げられたいろんな企画に「現場にいかに関わるのかと問われ、寺を出て社会の中で役に立ちたいと仕事を続けた自分と宗教界、世間との位置付けを示す座標軸を示された」と発言。コーディネーターも務めた佛教大教授・大谷栄一さんは、メディアで頻繁に報道された同院の取り組みとその時代の社会状況との関係から「新たな都市寺院として、市民や若者、NPOとの協働による『もう一つの公共』の役割を果たしている」と論じた。
宗教学者で上智大グリーフケア研究所長の島薗進さんは、イラン革命以降の世界的な世俗社会の宗教回帰、国内での阪神・淡路大震災から東日本大震災を経て宗教者のあり方が問われた状況の中に寺院の役割を位置付け、「スピリチュアルへの関心も実は宗教回帰。知識や技術が進んでも人々が精神的な空洞感を抱える中で伝統仏教の存在は重要だ」と指摘した。
秋田光彦・應典院住職は「そもそも寺院は学び、癒し、楽しみの場という公共性を持っていたはずで、地域に根付いてそれを発揮していく。通仏教や超宗派を言う前に『単独僧』としてどれだけやって来たかだ」とのべ、葬送をキーワードに今後への決意も披歴した。
詳録を前中後の3部に分けて報告する。(ジャーナリスト 北村敏泰)
寺の公共性を先鋭化する
シンポジウムの後半は秋田光彦住職も加わって4人で論議が進められた。まず秋田住職は「求道的若者が不在になったというより、求道的になれる場所がなくなっているのではないか。仏教は言葉によって定義され理解するという、そういう仏教の理解ではなく、まず場所がありそこに身体ごと関わりながら感じ取る、そういう場の持っているポテンシャルが十分生かされていないのではないか。ほとんど宗教施設になってしまっており、それは“場”ではない」と語り始めた。
「應典院にはアーティストが多い。評価の定まらないいわば“変人”たちが長く通って来る魅力とは何か。それはここだから許容される、そういう猶予があるから。逆に言うと世間が権威や規範や秩序に囲い込まれて、そのように生きなくてはならないと操作される、それへの反発が表現に行くのだが、そのような人が嗅覚的に『面白いやん』と集まって来る。
しかも居心地の良さから“カルト”化するのを阻むためにも表現がある。表現は外へと回路が繋がっているからだ。内へ籠る求道的なものと、それを表現という架け橋で外部へ架橋していこうとする、その外と内との応答がこの20年間で一番ダイナミックだった。それは宗教が失ったもの、失いかけているものだが、それをもう一度回復して行きたい。ここへ来る若者は皆悩み、ためらい、探している。それをしっかり受け止めるメンタリティが應典院の原点だ。
『公共』というが、寺はそもそも存在が公共的だ。“学び、癒し、楽しみ”は寺の原点だと20年前から言い続けている。言い換えれば教育、福祉、芸術文化だが、皆の力で作って来たもの。だが、そう言っただけで寺はそういうものだと発見されるということは、言わないと伝わらないということ。寺に公共性があると言いつつ、それを振りかざす時は信教の自由しか語らないというのは自己擁護だ。ならば、どうしてこの地域に寺があり、どんな効果を育んでいるのかということを上手に説明するために『宗教の社会貢献』という言葉が生まれたのではないか。この言葉はうさん臭いがその言葉を使わないと分かってもらえない。應典院が先鋭化したのはそのための理論武装。私は説明責任を果たして来たが、原点は言わずもがな。地域に根付いて来た寺の伝統的な公共性だ」。
大谷栄一さんが「應典院は魅力的で特徴的な寺だが、他の寺では難しいのではないか」と投げかけると、生まれ育った自坊の住職を最近継いだ大河内大博さんが「寺とか仏教界と一口に言っても地域性も事情もそれぞれに違う。この寺町での應典院と、私が地元でやろうとすることも事情が違う。應典院の魅力を語るのはたやすいが、『應典院だからだからできる』という言われ方を秋田住職がある種エネルギーにしてとんがり続けていることの凄味を感じて私は自分のできることをやって来た。應典院にはそのような凄みが体現されており、そういうことが発信力だと思う」と応答し、大谷さんは「地域性をもう少し広げると都市寺院の問題にもなる。日本の仏教研究は農村の村落寺院がほとんどであり、今も過疎地の寺院の研究はあるが、都市寺院が取り上げられることは少ない」として「都市寺院の地域性」の論議に導いた。
地方と都市、ストックとフロー
島薗進さんは「歴史的に見ると、都市でも戦前は寺院が社会の中で弱いところを支えていた。例えば『孤児院』の運営、保護司など。災害の時も子供を預かったり医療などの支援活動をした。だが戦中や戦後の福祉国家の中で、寺がそういう機能を縮小して来た面がある。現在研究中だが、例えば川崎大師は戦前は労働者のための活動をし、今もある『子供学校』をしていたが、戦後になるとそれは社会福祉で国がやるものだとなった。福祉の専門家が育成されると、宗教に関心のない専門家がやることになり、お寺の側も自分たちの領域ではないと引いていったところがある。
東日本大震災以降、寺の中にいるだけでは人々に接することにならないということが明らかになり、寺も僧侶も外へ出なければならない、という認識が広がった。社会の側も、生きて行く上での精神的な支えがなくなり、若者にも心の飢餓感がある。そこを應典院が引き寄せるのが凄いと思う」。
大谷さんが「應典院の活動も、戦前からの寺院の社会活動の流れと共通する面もあり、應典院独自の面と両方があるのではないか」と秋田住職に問うと、住職が自らの姿勢を語る。
「浄土宗の歴史を見ると、戦前の現場の方がはるかに躍動感があった。都市の寺院はすごいことをしていた。福祉国家にカバーされる前は、宗教者がケアをサポートして来た。しかも都市はそういう問題が噴出して来る。大阪は世界一、都市問題がすべてある。これほど都市寺院の活動にふさわしい場所はない。
地方寺院はすべてストックだ。伝統も檀家も伽藍も。対して都市寺院はすべてがフローであり、すべてが動く。だから應典院は絶えず変化対応しており、かなりエネルギーがいる。私一人ではなくスタッフやパートナーがいるからできるわけで、22時まで門が開いている寺であるのは、それを覚悟を持ってやって行くのが都市寺院の出発点。だからこそ、多様な情報やセクターとか協働とかいうことが促進される。都市にあるということを存分に受け入れる。当然、休みはありません」。
これに、大谷さんが「仏教の近代化とは、仏教が寺から外へ出て行くことだとも言われている。仏教を学ぼうとすると瀬戸内寂聴や五木寛之の本を読んだり、一方でネット上の彼岸寺のようなものもあり、寺に行かなくても仏教に接することができ、受容の仕方が増えている。そんな中で敢えて寺というもの、リアルな現場としての寺院の場所性をどう考えるか」と問い掛けると、秋田住職は「本物のストックを作るためにフローを動かし続けている。ストックに値するフローの物語をつむいで行く。どんなに頑張っても伝統的な名刹古刹にはかなわないが、若者や社会活動家たちとフローの物語を創り上げて来たし、その行方に着地点に本物のストックが生まれるのではないか。何百年の歴史・文化財ではないストックが」と答えた。
宗派を超え、宗教をも超える
島薗さんは「ストックは更新して行くもの、伝統を受け継ぎながら時代のいのちを循環させて切り開いて行くもので、應典院はそうしている。老舗の方がむしろなかなか更新できない。應典院はある良い条件の中で今の伝統教団が抱えている問題を独自の受け止め方をして新しい地平を切り拓いている。日本の宗派仏教がスピリチュアルケアの時は横につながるというのではなく、宗派の教えが大事だが心の支えを求める人は、それだけでなくまず仏教、仏教よりも宗教を求めている。そういうものに応じることが、戦後の仏教の展開の中では弱まった。
(宗祖たちの)教えは大きいが、むしろ行き場のない若者たちは居場所を探して自分の問いを問いたい。それには演劇をする人とか独自の試みでそういう人の心に届こうとしているそういう人たちと協働しながら、仏教の新しい地平が拓かれて行くのではないか。その意味で、應典院は現代日本の宗教文化の力強い部分に反応する力があるが、他の寺院にはまた別の展開もあるだろう」とする。
秋田住職が島薗さんの著書『スピリチュアリティの興隆』を挙げ、「宗教に代わるもう一つの宗教的なものという視点で、自分のやっている事が間違いではない、と支えられた」と、宗派を超える働きの方向性に言及すると、大谷さんは「宗派仏教の弊害が言われ、(仏教者による様々な社会活動の中に)通仏教的な、また通宗派的な流れがあるが、一方で『ひとさじの会』(浄土宗僧侶たちが野宿者や貧困者を対象に炊き出しや夜回り活動をするグループ)のように宗派性を重視する動きもある。さらにスピリチュアルのように“宗教をも超える”ということもどう考えるか。應典院では宗教ではない活動もしているが」と宗教性について問うた。
宗派や教団と“超宗派”の論議に関して秋田住職は「教団人か単独僧かだ。若い頃は教団人であることがアイデンティティである面があったが、その後確信的に変わった。個人として様々な取り組みを始めた際、あちこちで協力を断られたが、打たれ強くなり、実績も積んで協力者も増えた。つまり単独であるということは教団に頼らないことであり、自分の宗教者としての覚悟が問われる。
公共的な言葉で語らねばならない。通仏教とか超宗派とかを言う前に、まず単独僧としてどれだけ葛藤して来たのか。葛藤した仲間は必ず分かり、それが繋がった時にたまたま宗派が違えば超宗派ということ」と個人としての僧侶、仏教者の覚悟の重要性を強調。大谷さんの「宗教を超える」の問いには、「釈徹宗さんの言う『無意識的古層』。墓があり観音さんがいるここは何でも無意識的古層だ。逆に言うと、私たちの中にある無意識的古層がくたびれて顕在化しづらくなった時代で、應典院でやっている世俗の活動の方が無意識的古層を引き上げるスイッチになっている。伝統というものに包み込まれたものに退屈した若者が應典院で演劇やアートに触れ、その奥行きの中に宗教性を感じている。普段手を合わせたこともない非宗教的な若者たちがここに集まって醸し出すものは、この場の持つ無意識的古層を演劇やグリーフケアがスイッチを入れたものだ」と応じた。
「應典院スタイル」の汎用性とは
大谷さんは続いて、「應典院スタイル」というものを提示して論じた。
まず、秋田住職による「應典院」の定義を挙げ、『葬式をしない寺――大阪・應典院の挑戦』(2011年)にある「学び・癒し・楽しみ」(教育・福祉・芸術文化)を提示。さらに「葬式をしない寺」「都市のお寺」「開かれたお寺」「劇場型寺院」「市民参加型寺院」「地域のお寺」「呼吸するお寺」「日本初のNPO寺院」「芝居ができるお寺」などを列挙した。
そして、秋田住職による應典院の特徴として、①協働型:セクターを選ばず、他宗教・大学・行政・NPOなどと対話・連携を重ねて来た。②表現型:若手の表現者育成・支援を打ち出し創造拠点を形成して来たこと。③教育型:哲学や芸術、まちづくり、スピリチュアリティなど、新たな市民学習の場を押し広げて来たこと――を挙げ、「これを住職は単独僧としてやって来た。その独自の立場性と應典院に汎用性があるのかどうかを考えたい」とした。
大河内さんはこれに対して「スピリチュアルケアやグリーフケアの現場に関わり、臨床宗教師の育成に関わっていて、やってることは共通言語を取得するトレーニングだと思う。医療現場では医療文化という根強いものがある中で、共通言語を持つ人たちが何を目指しているのかを理解できなければ仲間に入れてもらえない。同じ様に、寺とか教団にもそれがあって厄介だ。その文化は應典院のあるこの地と私の寺のある住吉でもまた違いがある。それをやや批判的にとらえ直さないと共通言語を持たねばという問題意識は湧いてこない。それを秋田住職は会話のテクニックを徹底的に学んだと言われたが、そこで初めて関係性が築け、そこでまたトレーニングされるとまた違った関係性の中で対話ができていく。その連動が次々フローの中で変化しながら新たな真のストックを作ることになるのではないか。
私たち僧侶がいかに共通言語を持つか。医療現場では私たちはまだまだはじかれる。それは患者が望まない、臨床宗教師に来てほしいと思わないから。だが、ニーズがないのではなく、掘り起こされていないからだ。だから宗教者が行けば、関わるべきニーズはある。グリーフケアで私がファシリテーターをしたら坊さんの悪口が出て来る。傷付けられたと。そんなに葬儀などで傷付けているのだなあ、それは坊さんが“言語”を持っていないから、聴く力がないからだと思う。言葉を学ぶためには相手の言葉に耳を傾けないとだめで、聴く力と一緒の言葉を持つ力がこれからの僧侶のキーワードになる。それがフローであればあるほど言葉も変わるので、ストックのものが通用しないことが都市ではあるのだろう。そういうことが應典院がしていることの本質とするなら、それは各お寺で生かしていける。それが協働型なのか表現型なのかは住職の人柄、個性だ。例えば1寺院1事業という際、寺院文化や教団文化を批判的にとらえ直さないといけない」と問題提起した。
應典院の第2ステージは「葬送」
ここで大谷さんは「医療と宗教」に関して、東日本大震災を機に生まれ、全国に広がりつつある「臨床宗教師」について、日本臨床宗教師会会長も務める島薗さんに振った。
島薗さんは「『臨床宗教師』という名前に魅かれて、こういう宗教者の領域がある、医療現場でチャプレンのような役割がある、社会で弱い立場の人を支えるという事もある、そういう認識が宗教者広がり、社会にも受け入れられ始めている。内実はこれからだが、臨床宗教師がしっかりした機能を果たすためには、その現場に通用する共通言語を持つことも必要だし、単独僧としての自覚も必要だ」とし、「臨床宗教師に憧れてくる若い宗教者は、伝統的な葬祭などの役割と臨床宗教師の活動をどうリンクするか考えている。應典院でも葬祭以外の活動に期待が集まることが、逆に葬祭の充実、葬祭を通じて人々が仏教に親しむというあり方が新たな次元をもつことにつながるのではないか」と、應典院の今後の展開に含みを持たせて締めくくった。
この後、すべての論議を受ける形で秋田住職が特別に「應典院のポスト20年構想」の“さわり”を力強く語った。
「終活とかイオンとかお坊さん便とか消費的な記号でしか語られなくなった日本の葬送を見直したい。一つは大蓮寺の檀家の葬送を通じていろんな貧困問題に突き当たった。もう一つは、昨年11月に開いた上方の葬送シンポジウム。近代、戦前に葬式の相互扶助、助葬システムが細やかに発展していたことが示された。これに多くの市民が集まったということは、企業やテレビでの相も変わらない葬送の語られ方にうんざりしているし、人々が先人のやり方に大きな関心も持っているということだ。
多死で貧困と孤立の時代に突入したら、葬送は福祉だ。地域包括ケアシステムは在宅医療と看取りまでで、それ以上は行政はカバーできない。その後に来るのが弔いとか供養という宗教的文化。これをどう社会サービスにして行くかが問われている。しっかりやりたい。『葬式をしない應典院』が葬式に取り組むとこうなる、というものだ。9月に『お寺終活祭』から始める。應典院の第一期活動は一定の役割を終えた。これからの第2ステージのキーワードは葬送だ」。
死生学や生命倫理問題にも広く研究のウィングを広げる島薗さんが、應典院の具体的な日常活動から、宗教やスピリチュアルといった宗教的なるものが現代人の精神の空白をどう埋めるのかといった形而上的な提起を続けたのに対して、現実の應典院という現場にしっかり足をつけた秋田住職や医療という現場に関わり続けた大河内さんが、これまでの実践経験から来る確固とした信念を背景に具体的な取り組みの姿勢を明確に語るのが印象的だった。
(ジャーナリスト 北村敏泰)