KMA2015REVIEW 小林瑠音

「いろがうごく、ことばがざらつく、おとがみえる :ズレと共鳴の2日間」
小林瑠音(應典院アートディレクター)

夏の終わり、8月29(土)と30日(日)の2日間、應典院、大蓮寺そしてパドマ幼稚園を会場に、「子どもとおとなが一緒に楽しむ創造の場」をテーマにしたアート・フェスティバル「キッズ・ミート・アート2015」を開催した。まちとお寺と幼稚園を舞台に、2013年に大阪城南女子短期大学の主催で始まったこの企画は、3年目を迎える今年、應典院寺町倶楽部とパドマ幼稚園が主催、城南学園が共催という形での実施となった。
2日間で全14プログラム、ゲスト21名、学生ボランティアや幼稚園の先生を含むスタッフ総勢71名で臨んだ当日は、一部雨天にもかかわらず、合計約350名のご来場をいただいた。

まずフェスティバルの予兆は前日の準備作業から始まった。幼稚園講堂への楽器搬入、インターンの芸大生による看板作り、クラフトワークショップのための毛糸展示、と各会場でせかせかと準備が進み、それを映像記録にとどめるカメラマンさんが額に汗しながら小気味良いカメラワークで駆け回る。特に秀逸だったのは、両日音楽会を開催いただいた野村誠さんが、幼稚園の楽器倉庫から壊れてデローンとなった木琴(紐がはずれてもはや木片と化していたもの)を発掘してせっせと床に並べ出されたシーンだった。一緒に準備作業にあたってくださっていた幼稚園の先生方の、「え?これを使うのん??」という明らかに困惑した表情と、一方で無造作に陳列した木片の音響チェックを黙々と続ける野村さんとのコントラスト。おそらく、お互い、いつもと違うアウェーな環境の中で、ともに遠慮や不安を抱えながら作業にあたってくださっていたのだと推察する。しかし、このある種の<不和>が、まさにこのキッズ・ミート・アートの始まりであり、エッセンスだったように思う。

実際、開催日当日にも、同じようなシーンに出くわした。例えば、「飛べない鳩」がなぜアートなのか、ヒスロムたちが説明を重ねるも腑に落ちない表情で「はぁ…。」と頷く保護者の方。<不和>と書くとネガティブな印象になるので、どちらかというと<ズレ>と呼んだほうがよいのかもしれない。いずれにせよ、ここで生じた野村さんと幼稚園の先生、あるいは、ヒスロムと保護者の方の間の<ズレ>、つまりそれぞれが内包している「楽器」や「アート」についてのイメージの違いと、その表出は、実はとても大事なことだったのではないかと考えている。

美術家、ミュージシャン、演劇人、ダンサー(以下総称として「アーティスト」と呼ぶ)をお寺や幼稚園に連れてくるときに、できるだけお寺慣れしていない、または子ども慣れしていない人をよんでくるように心がけている。アーティストたちは、子どもたちにとっての「まれびと」であってほしいし、アーティストたちにとっても、子どもたちは「まれびと」であってほしい。子どもたちには、聞いたことない音、みたことないもの、つかったことない身体の部分、そういった未知の対象と出会ってほしいし、アーティストたちには、できる限り「いつも通りの所作」の中で、想定外のレスポンスと出会ってほしい。それは子どもたちにとって「遊び」かもしれないし、アーティストにとっては「表現」かもしれないし、それらが逆になることもあるだろう。子どもたちとアーティスト、遊びと表現は、私たちが抱きがちな予定調和を軽やかに超えて、瞬時に<共鳴>することが稀にある(実際、野村さんの音楽会では、ハーメルンの笛吹きが如くその音色に吸い寄せられた、ヨチヨチ歩きの子どもたちが、一人また一人とピアノの周りを駆け回りはじめたのだが、その距離感やタイミングは、まるでそうなるようにあらかじめ演出されたコンテンポラリーダンスの舞台のようであった。)キッズ・ミート・アートはその瞬間をできるだけ目撃したいし、捉えたい。この<共鳴>に対する探求もキッズ・ミート・アートのもうひとつの関心事であった。

と、ここまで理想をツラツラと書いてみたわけだが、しかし、そんな出会いの場はそう簡単には実現しない。そもそも、子どもを対象に、とオファーした時点で、アーティストは「いつも通りの所作」を少し封印して、(当たり前のことなのだが)「おにいさん、おねえさん(あるいは、おじさん、おばさん)」を演じてしまう。ましてや、保護者や教員とりわけお坊さん(!)の目線を前にすると、表現者としてのトゲや毒の部分は無意識のうちに一次小休止となり、背筋がピンと伸びているというのが正直なところだろう。実際、このような子どもに向けたプログラムでは、私たち主催者側にとっても、いわゆるおとなを主な対象にしたアート・フェスティバルを開催する時以上にセンシティブにならないといけないことが山積する。例えば、休憩所やバギー置き場の設置、写真撮影のルールや、フードコーナーのアレルギー表示など…。

それでもなお、ある一定の道徳的判断と安全性の配慮を保ちながらも、その中で一瞬の「野心」をみせてくれたアーティストたちに私は敬意を表したい。それは、「子どもにはちょっと難しいかもしれない」という迷いとのせめぎあい、つまり、「飛べない鳩」や「哲学カフェ」、「即興」や「身体」といったコンセプチュアルな問いへの挑戦かもしれないし、「プリミティブな織り機」、「書家用の等身大の毛筆」、「彫刻用の石膏と水粘土」など素材への希求かもしれない。まさに、小さいひとたちを相手に、プロの表現者としてどうふるまうか、これはアーティストにとって実は最も根源的な挑戦のひとつであるだろう。そこに伴走する主催者としては、彼らがその「まれびと」性をどうチューニングしていくのか、これからも一連の問答を注意深く見守っていたいと思う。

特に、今回ご参加いただいた講師の方々には、様々な領域(そこには、演劇やダンスといったいわゆる芸術領域の実演家だけでなく、幼児画研究や武術などのアカデミアあるいはマーシャルアーツも含む)の「プロ」として、それぞれの「技術」を通して、子どもたちの「生」にむきあっていただいた。そこから生まれた、子どもたちの反応、例えば、一心不乱に自分の指のすきまや足の裏に絵の具をぬりたくってみたり、母親の手を振り払って演者の輪に飛び込んでいく衝動は、日頃、現代の寺子屋を実践しようと奔走している私たち應典院のスタッフや、幼児教育に携わる幼稚園の先生方にとって、新たな表現者、そして新たな園児たちの表情と出会うきっかけとなったのではないだろうか。

子ども、アーティストそして、その周辺のおとなたちそれぞれが、色、音、ことば、身体にあふれた「異日常」の中で、お互いの<ズレ>と<共鳴>を確認しあう、そんな2日間となっていればと願う。

最後にあらためて、出演者ならびに記録班、フードコート出店者、ボランティアスタッフ、そしてご参加いただいたみなさまに感謝の意をここに記させていただきたい。ありがとうございました。

<執筆者プロフィール>
小林瑠音(こばやしるね)
2015年度まで應典院アートディレクターを務め、現代美術の展覧会や子どもとアートをつなぐ企画の運営等を行う。現在は神戸大学大学院博士後期課程在籍。専門は英国文化政策、コミュニティ・アート史。いわゆる「アート」の存在が前提とされていない環境において、アートとコミュニティが遭遇していく、そのプロセスと社会的インパクトに関心をもつ。

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