2018/11/27 應典院寺務局:おてら終活カフェ第5回「お坊さんがサポートする終(つい)の住処」を開催いたしました。
黄色や赤に染まった樹木を見渡す気づきの広場にて、11月27日に「おてら終活カフェ」の5回目が開催されました。今回は毎日放送のVOICEの取材も入り、賑やかな午後となりました。本日のゲストは僧侶の三浦紀夫様。平野の地域で介護や訪問介護事業所などを行う、仏教福祉NPOグループである、一般社団法人ビハーラ21福祉事業協会の事務局長でもいらっしゃいます。(ビハーラ21 https://www.vihara21.jp/)
最初、三浦さんの今までのご経歴から、百貨店の仕事をされていた時代のお写真などを見せてもらいながら、なぜ、今の僧侶や臨床のお仕事につながったのかの経緯をうかがったあと、三浦さんが大事にされている「傾聴」や「ありのままを受け止める」という、実践者としての心構えをお聞きしました。現在ビハーラ21は、瓜破西に高齢者デイサービスを開設、舎利寺(生野区)にビハーラ住宅、そして、清水(旭区)に障がい者作業所(就労継続支援B型)を開設されています。様々な日常の様子を語られたその中で、印象的だったのは、三浦さんが介護をされていることを通じて、仏教思想を日常から説かれていることと、「愚痴を聴く」という行為。実はこの「愚痴」ですが、仏教では、仏道を歩むものにとっての三毒ともいわれています。
一色順心大谷大学助教授(仏教学)は、『生活の中の仏教用語』の中で、
仏教でいう「愚痴」は、愚癡とも表記し、仏の智恵に暗いこと、衆生の根本的無知をさす。数ある煩悩の中でも「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴」は、仏道を歩む者にとっての三毒と名づけられるように、もっとも根強い煩悩である。大乗経典には、衆生の三種の病とその治癒法が説かれる。「貪欲の病には骨相観を、瞋恚の病には慈悲観を、愚痴の病には縁起観を教える」『涅槃経』 とされ、(中略)愚痴の者に対しては、無明の闇に覆われて誤った見方しかできないため、縁起の理法を観察させるというのである。ブッダが目覚めたとされる「縁起」は、一見、当たり前の道理のようでありながら、頑なにそれを見えなくさせる根源こそが「愚痴」という煩悩なのである。
と説明されています。我々が日常生活を送る中で、つい漏らしてしまう愚痴ですが、高齢になり、身体の自由が失われ、様々な能力が低下していく中で、「縁起」を見えなくさせる根源である「愚痴」であることには、頭では理解はできるものの、その愚痴を消し去ることは、実はとても難しいものです。その「愚痴」を安心して吐ける場、「愚痴」を聴いてもらえる僧侶としてのビハーラ僧の役割の大きさを感じたのが、プログラム終盤の参加者からの意見でした。「愚痴を聴いてもらうだけで、老人の7割の悩みは解決するのではないでしょうか?」という声にうなずく方の多かったこと。「愚痴」は信頼する聞き手が居てこそ、滅却していくものだと表れていたのではないかと感じました。
途中には秋田光彦住職や秋田光軌主幹もお話しに加わり、三浦さんのような単独僧(元々からの寺院出身者ではなく、在家から僧侶となった方で社会とのつなぎ目の役割を果たす僧侶)の活躍が近年目覚ましいこと、様々な迷いが多い現代社会だからこそ、「どう生き、どう往くか」を求めている地域の人たちに、単独僧を含め僧籍を持つ者としての「頑張りどころ、やるべきこと」が介護の現場や臨床の場にあるのではないか、と指摘する秋田住職の言葉に、深く頷く三浦さんの表情がキリリと引き締まって見えた時でした。