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2019/3/14-3/17 坂本涼平:えーびーがた『地球ロックンロード』(應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2018)レビュー

去る3月14~17日に、えーびーがた『地球ロックンロード』(應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2018)が開催されました。青春の香り漂う懐かしさと、いつの間にか宇宙の物語へ誘われている爽快さのある舞台でした。今回は、劇作家・演出家の坂本涼平さんにレビューをご執筆いただきました。


 

「だれだって“そう”なんだ。」そんなふうに、おもった。それは、登場人物に対してだろうか。それとも、ついに走り出した新しい表現者たちに対してだろうか。二つの“あのころ”を強く想起する、名前もなければ形もない、決して捕まえることはできないけれど、「そういうものって確かにあったよね」と後になって思い出すことができる愛すべきものについての演劇が、在った。

 

正直、俳優も作家もやろうという個性を、私は恐れている。不審に思っている。憧れてもいるかもしれない。それはなぜか。少し、前置きが長くなる。

 

私にとって、作家をやる、演出をやる、というのは、自分の身体性の呪縛から解き放たれようとする試みである。ようするに、不自由であり、基本的には無価値な自分とは違う誰かになりすます事に他ならない。作劇の師匠方は、「作家は身を切らねばならぬ、血を出さねばならぬ。」と言う。その通りだと思う。しかし、観客として「観たい」ものは、肉や血そのものではない、それは作家にとっての記念にすぎない。イニシエーションにすぎない。私が観客として「観たい」のは、その肉や血が起こす奇跡である。だから、わざわざ不自由な肉をひっさげて、観客の眼前で血みどろになるのは美しくない。作品になった時、それはもう作家の肉や血であってはならない。そう思っている。もちろん汚物を汚物のままお出しするのを良しとする向きもあろうが、私はそれを選ばない。私は美しい物に価値を置く。無価値な物を、さも価値のあるものであるかのように見せかける。それ自体は相変わらず無価値でも、ひとたび観客の心と化学反応してしまえば、さながら奇跡/輝石のようにその経験は価値を持つ。そう考えている。

 

それなのに、俳優から出発した俳優村出身の方々は、自分自身の血肉の物語を、自分自身を主役として上演するという蛮勇をやってしまう。なんて厚顔な、なんて破廉恥な、なんて不道徳な。しかも、大失敗してくれれば、それみたことかザマーミロと言えるのだが、割と成功させてしまうから、作家村の人間としては立場のないことこの上ない。お前の血は何色だ。俳優の汗は輝いて見えると言うが、血肉すら美しいのか。(もちろん、それで大失敗した例もいくつもあるし、実際に直面するとザマーミロどころか、いたたまれない気持ちになるばかりである。)

 

さて、では今回のえーびーがた初の本公演にして、真壁愛氏初の長編作劇はどうだったのかというと、これがまたかなりの部分で成功しているから、小憎らしいのである。しかし、この成功は、「勝ちパターン」として今後踏襲できるものではないだろう。これは、初の本公演というタイミング、演じる自分たちの身体年齢やモチベーションのありよう、真壁さんの作家としてのフレッシュさ、そして語られる「私たちの話」。そんな諸条件がピッタリきたからこその大成功である。ビギナーズラックと呼ぶのは失礼だろう。真壁さんは、えーびーがたは、人生で一度しか使えない、しかも期間限定の切符を、機を逃さずちゃんと使ったのだから。

 

というのも、確かに稚拙なところはあるのである。導入のおかゆのくだりは退屈だし(でも実は必要)、エピソードはぶつ切りだし(そうすることに意味はあるのだが)、フックは少ないし(それ自体が伏線であった)、俳優がキラキラしていなければ、かなり苦痛な前半戦を強いられたことは間違いない。しかし、だからといって、凡百のベテランがするように、笑える小ネタをもっとわざとらしくちりばめたり、あからさまな伏線を張って観客の気を引いたり、あざとく色気に走ってみたり、そういう定石、そういうユニバーサルデザイン、そういう親切を抜け目なく実施することは、この作品の魅力を削ぐように思われた。

 

私は、この作品を、はっきりと、「裏返る物語」だと観た。「裏側だった物が裏返って物語になる物語」だと思った。ルームメイト二人、それぞれの三年間、きっといろいろなことがあったのだろう。しかし、あったであろう学校生活、あったであろう恋愛、あったであろう挫折、あったであろう喜び、そういう「おいしいところ」は、ほとんど語られない。目の前で繰り広げられるのは、それら以外の部分。退屈結構。ぶつ切り結構。フック? 何それおいしいの? だって、そういう物なのだから。そういう日々こそが、日常を満たしているのだから。そこは、俳優の魅力に任せてしまいましょう。俳優の魅力で観客には耐えてもらいましょう。作品の後半も後半、その大事な些細な一瞬まで。その一瞬の瞬間最大風速のためにこの作品は存在している。私にはその決断を下すことができる、だって私は俳優だから。……と真壁さんが思ったかどうかは知らない。しかしどうしても、青春の青さと、旗揚げの青さがリンクするこの作品においては、その潔さが心地いい。

 

一見、個人的で、作家の独りよがりにも見える退屈なシーンの連続、そのなかでふと語られる発端のわからない諍いの日々。しかし、ともすれば人生の中で特別な意味をなさなかったかもしれないそんなバラバラの日々があったから、「彼女たち」は「彼女たち」になった。あの、「歩道橋の一夜」によって。一瞬にして。いままで関連していなかった日々が有機的に手をつなぐ。きっとその時、なぜかはわからないけど、彼女たちにとっての高校三年間は、お互いとの三年間になった。そんなことを、表現しようとして、できる人がいるだろうか。他人に説明できるだろうか。できないのである。表現できないことを表現する、この矛盾した営為を演劇と呼ぶ私は、まさに演劇を観たという気になった。

 

経験が妨げになることはきっとある。見えてしまってからでは語れない物語がきっとある。あるいは、書くということが、語るということよりもずっとずっと大事だったあのころのもどかしさ。あるいは、私にとっての、母校の宿泊施設。合宿最終日の早朝。階段下のあのスペース。そんな、説明しても誰にもわからないごく個人的な景色に、この作品の、あの歩道橋が触れてきた。だれだって“そう”なんだ。だれかと全く同じ経験をする人間はこの世にひとりとしていない。でも、あの、「“あの”としか言いようのない経験」があると言うことだけは共有できる。そんなささやかな寄り添いがこの作品にはある。

 

そういうことを表現できる人は、実は少ない。いや、きっと多くの作家、表現者が、自分にとっての「そういうこと」を表現しようとしているに違いない。でも、私の心が動くのは、その多くの作家の中の一握りなのであろう。であれば、面白かっただの、そうでなかっただの言うのは、もはや野暮である。私は、お気に入りの作家を一人見つけた。お気に入りの劇団を一つ見つけた。そういうことである。

 

 

○レビュアープロフィール

坂本 涼平(サカモト リョウヘイ)

劇作家・演出家。1985年大阪生まれ。芸術学修士。研究テーマは「悲劇論」。2009年に劇団「坂本企画」を立上げ。「ほんの少し、ボタンを掛け違った人間の悲劇に寄り添う」ことをテーマに掲げ、非日常的な世界での静かなセリフのやりとりに、社会に対する寓意をしのばせる演劇を作り続ける。ロクソドンタブラック(現Oval Theater)主催「ロクソアワード2012」スタッフワーク部門最優秀賞、演出部門三位、総合三位受賞。

2019年下半期に新作公演を上演すべく、奮闘中。

人物(五十音順)

坂本涼平
(劇作家・演出家)