イメージ画像

2019/3/27 釈徹宗:おてら終活 花まつり講演抄録  「死では終わらない物語」前編

浄土宗應典院では3月27日から4月13日までの期間「おてら終活 花まつり」を開催致しました。桜の季節に延べ300名の参加者がお越しになり、様々なプログラムにご参加いただきました。「おてら終活 花まつり」の初日である3月27日の講演に、浄土真宗本願寺派如来寺住職、相愛大学人文学部教授である釈徹宗先生をお招きして「死では終わらない物語」というタイトルでのご講演をいただきました。

釈先生は、NHK「100分de名著」をはじめ各メディアでご活躍される、日本を代表する宗教学者であると同時に、「寺子屋トーク」や「コミュニティ・シネマシリーズ」へのご登壇、また企画段階から参加していただいた2015年の「セッション!仏教の語り芸~伝統vs創造~」また、20周年の節目の記念講演へのご登壇など、最も應典院に関わりの深い仏教者のおひとりでいらっしゃいます。今回、その際の講演録を、ライターの高橋佳恵さんが作成頂き、前後編の二回に分けて更新いたします。前編では「死の問題」を人類における埋葬や儀礼から紐解いて明らかにしていただきました前半部分の抄録となります。


應典院の「おてら終活」のキーワードである「共生~ともいき~」とは、今この世で生きているもののつながりのみならず、古代から脈々とつながってきた「いのちとの共生」も含まれているのではないかと考えています。われわれ人類にとって、「死の問題」は避けて通れません。人類最大のテーマとも言えるでしょう。しかも、どこまでいってもスッキリと読み解くことは出来ない。

■人類における埋葬・儀礼・宗教・社会

死者埋葬の起源は古く、旧人(ネアンデルタール人)時代の後半までさかのぼります。それ以降、現生人類に至るまで、死者埋葬を行わない人類はありません。人類は「死」の概念を獲得することで、独特の生物へと展開していったわけです。死者埋葬や死者儀礼が営まれると同時に、死後の世界や死後のストーリーが生じたことでしょう。それは現代の死生観にも連綿とつながっています。
新人(クロマニヨン人)時代になると「交換」行為が誕生します。これはとても大きなことです。交換行為によって、社会の規模は一気に大きくなります。そして、交換行為は死生観ともリンクしていたと思われます。つまり、死者儀礼によって、死者を見えない世界へ送る。そのことによって、新しい生命がやってくる。生と死をそういう大きなサイクルでとらえたのではないか。
さらに、死者儀礼は、先に逝った人と再び会おうとする営みでもありました。「死に対する恐怖や不安」と、「亡くなった人と再び会いたいと願う欲望」、実に難問です。でもこの難問と向き合ったからこそ、人類の知性や情性は鍛錬されていきます。

精神科医であり、精神分析の産みの親であるフロイトが面白いことを言っています。フロイトは、快を求め不快を避ける快楽原則(エロス=生の欲動)によって人間を読み解こうとしました。しかし、フロイトはこの原則に沿わない欲動が存在することを、孫(エルンスト君)の「糸車遊び」を目にして気づきます。エルンストくんは、糸車が転がって見えなくなると悲しそうに「オー(フォルト:無くなった)」と言い、手繰り寄せて糸車が見えてくると「ダー(見つけた)」と嬉しそうな表情をみせる、そんな行為を繰り返したのです。フロイトは、「どうしてこの子は、わざわざ不快を求めるのか」と考え込むわけです。この「反復強迫」への疑問から、フロイトは生の欲動とは全く別の行動原則(タナトス=死の欲動)の仮説を立て、その一部は『快楽原則の彼岸』で述べられています。
人間の脳は、快の記憶(先に逝った人との良い思い出)だけを残し、不快の記憶(死の現実)のみを消去する、などということができません。嫌なことだけを都合よく忘れることが出来ないならば、何度も繰り返し経験して、それに慣れるという手立てしかありません。だから何度も死者と出会う儀礼を営むのかもしれません。

 

■通過儀礼としての葬儀

世界の文化圏には二次埋葬(埋葬した後、一定期間を経て改葬するなど、複数回の埋葬をすること)するところが結構あるのですが、それとて「息を引き取ったその瞬間に、その人の全てが終わるのではない」という死生観・来世観があるから成り立つ形態ですよね。
葬儀は人類の三大「通過儀礼」のひとつですが、これも死を点でとらえず「生者から死者への変換」、「現世との分離」、「別のカテゴリー(見えない世界)への移行」と、線でとらえるからです。現生人類をホモ=レリギオースス(宗教を持つヒト)と捉える考え方もありますが、こうしてみると宗教行為は人類最大の特徴のひとつだとわかります。今は宗教儀礼がどんどん貧弱になってきていますが、儀礼がもつ働きをあなどってはいけないと思いますね。

そういえば、仏教嫌いで知られる民俗学者・柳田國男が「日本人は仏教によって死としっかり向き合うようになった」と、どこかで書いていました。それまでの日本人は、死はひたすら忌み嫌い遠ざけるものだったようです。日本人が死と向き合う上で、仏教が果たした役割は大きいと言えましょう。中でも、やはり浄土仏教が大きいですね。浄土仏教は、日本において独特の展開した仏教体系です。とても情緒的で、来世のビジョンが豊かで、物語性が高い。そこが日本の宗教的メンタリティにしっくりきたのでしょう。お迎えの仏としての阿弥陀仏信仰、さらにそれを見事に仏道として構築した法然や親鸞。この人たちは多大な影響を与えてきました。

後半に続きます

2019/3/27 釈徹宗:おてら終活 花まつり講演抄録「死では終わらない物語」後編

人物(五十音順)

釈徹宗
(宗教学者・浄土真宗如来寺住職・相愛大学教授)