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2019/6/6 インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」第4回:稲田瑞規(後編)

インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」を展開しています。本連載は、さまざまにご活躍されている仏教者の方々に、社会や仏教の未来に対するビジョンを伺うもの。第4回は、稲田瑞規さん(浄土宗称名寺副住職 ※家出中)にご登場いただきます。前編につづき、後編では浄土宗のお念仏のおしえについて、どのように仏教と社会をリンクできるのか等について、お考えを伺いました。(聞き手:秋田光軌)。


浄土宗のおしえと信仰モデル

――前編では、多彩な実践を通じて仏教への思いをお聞きしましたが、主にお釈迦様のお話が中心でした。浄土宗のおしえ、法然上人に対してはどのように感じられていますか。

稲田 各地で話を聞いてると、浄土宗けっこういいなと思っていて。他の宗派だと、布教の方法や選ぶことばについてきびしいみたいで、SNSで積極的に発信したり、色んな企画に挑戦しているお坊さんは浄土宗が多いんですね。南無阿弥陀仏、お念仏の大切さだけ外さなければ、ある意味で自由放任主義的なので、「自由に動けるのがうらやましい」ってよく言われます。僕もそのおかげで生かされている。

といいながら、実は念仏についてどう捉えたらいいのか、あんまり分かっていないという悩みもあります。法然上人のことはめちゃくちゃリスペクトしているんですよ。当時の日本仏教のシステムを根底から覆して、念仏一行によって新たに全部つくりなおすというイノベーションを起こされた。法然上人はすごく尊敬しているんですけど、現代における念仏をどう説明したらいいのかが難しくて。

――悩みますよね。というか、そこで悩まなかったらダメですよね。お念仏に阿弥陀仏や極楽浄土と言われても、多くの現代人にはわけがわからないという前提からはじめないと。

稲田 お念仏のおしえには信仰というモデルがあって、唯一絶対の阿弥陀仏に救われるっていう構図だと思うんですけど、そのモデル自体がなかなか難しい。こないだもあるイベントで参加者の方が「すべての人を救いとると誓った阿弥陀仏がいるのに、なんで虐待死する子どもがいるんだ」と話をされて、そういう風に取られる人も多いだろうなって思いました。もちろん、本質にはブッダの思想と通じる部分があるわけですが、信仰モデルで語ろうとするとなかなか現代にマッチしない。そこを考えていかないといけないなと。

信仰モデルって、宗教でなくてもどこにだってあるじゃないですか。ウェブ社会だとインフルエンサーがいてオンラインサロンがあって、あれはまさに宗教的システムだと思います。ただ、インフルエンサーは「私を信仰しなさい」とは別に言ってなくて、インフルエンサー自身になにか信念があるんです。「これを成し遂げるんだ」っていう確かな目標があって、その実現に向けて行動が伴っている。ウェブ社会では、目に見えるその人のストーリーがあって、周りがその物語を追う過程の中で信仰が生まれているんだと思うんですね。「信じなさい」って上から言われるのではなく、そうした過程にこそ信仰があるはずで、そういうストーリーが現代の念仏の切り口なんじゃないかなと。

それに対して、極楽浄土に往生するという目標と、それに向けて念仏を唱えつづける行動だけで、そうしたストーリーが生まれてくるのかどうかは、なかなか判断しづらいですね。やっぱり一人の若者の感覚としては、「僕らとは違う世界の話だな〜」と思えてしまう(笑)。

「好き」からじゃないと仏教ははじまらない

――こないだも20代の浄土宗のお坊さんと話していたんですけど、その人は「なかなか阿弥陀仏を信じられない。それなのに、じぶんがどうやって教えを伝えられるのか」って悩んでいました。私にも同じような経験がありますし。

稲田 たぶん、なんとなく上手に説明しようと思ったらできるんですよ。宗教が持つ効果とか、信仰によって幸せが与えられるのはよく分かります。ただ、じぶん自身の問題なんですよね。ひとつの信仰だけを選んで、それに身を浸らせるっていうのが、現代人にはなかなか難しい。普通にブッダが言っていることは好きだし、法然上人が言っていることも好きだし、色んなアイドル・アーティスト・クリエイターが言っていることも好きで、選り取り見取りなんですよね。それが現代社会の前提です。

だから、「好き」っていう感覚からじゃないと何もはじまらないのかなって。教えではなくて僧侶自身を信仰するとなると危ないですけど、僧侶その人が魅力的で、その考え方や生き方が好きだっていう感覚でしか仏教は始まらないだろうと思います。

でも、僧侶はお寺という守られた環境があって、そのお坊さん自体にストーリーが生まれづらいようにも感じます。盤石な体制から生まれてくることばに、本当に世間の人が心を動かしてくれるのかっていうと疑問で。チャレンジしている人、リスクを負っている人、信念を持っている人。そういう存在に僧侶自身がならないと、ヤバいという危機感があります。人生全てが説法になっている状況が僕の理想ですね。

――稲田さん自身が苦闘する姿を見ている人は、どんな方を想定されていますか。

稲田 ネット上の視聴者であったり檀家さんであったり色々ですね。特定の場所にコミュニティをつくることは、今のところ考えていません。それよりも、そのへんの道端で説法ライブをやったり、遊行している僧侶が突然家に泊まりに来たりとか、誰かの人生において、そういう登場の仕方をしたいです(笑)。

どういうところに人間の感情が動くのかを考えると、アイドルの存在ってよくできているなって思います。遠すぎてもダメですし、近すぎてもあんまりありがたくないじゃないですか。中学校高校と全然ライブに行けなくて、大学生になって「モーニング娘。」のライブに行ったときの衝撃。あの感動に勝るものはないですね。アイドルの魅力ってもちろんかわいさもありますけど、どちらかというと心理的な面が大きくて、そういう関係性を構築できたらベストです。

伝統への敬意と「変態」

――ちなみに、今のところはご実家のお寺もやっていく予定ですか。

稲田 実は最近、微妙です。父には内緒にしておいてください。そもそも定住したくないんですね。僕としては予測できない状況に陥ったときが人生で一番楽しい瞬間で、だから定住するのは一番しんどいです。

――ここ100年くらいのお坊さんの「常識」とは真逆ですね。

稲田 一遍さんの本を読んでいて、めちゃくちゃアナーキーでいいなと思いますよ。今の仏教界って新しいシステムをつくろうとしていて、檀家制度以外の会員制とかファンクラブ的なものを作ったり、新しいお墓のかたちとかを提案するのが主流で、そうしたシステム化は大事と思いつつ僕は関心がありません。それよりも動物的で非日常的な存在を目指したい。

こういうこと言うと、もっと伝統を大事にしろって言われるんですけど、歴史に対するリスペクトはめちゃくちゃありますからね。お釈迦さまの根源的な思想、大乗仏教の大転換、空海さん法然さんなどの祖師がやってきた宗派という名の編集など、先輩僧侶方がつくってきた仏教史を見ていると、仏教は革新の連続だったわけですよ。それに比べて、現代の僧侶はどうなの?って思ってるんです。これが僕なりの伝統に対する敬意です。常に時代性を問うていくのが僕なりに伝統を守ることであって、檀家制度の維持が伝統とは言えないという感覚です。

親にも「お前、絶対に結婚できへんやろ」って言われてるんですけど、たしかにそういうことを考えだすと持続的な活動にしていかないといけない。まだ若いから甘いこと言っているのかもしれないですけど、今はそっちの道しか考えてないですね。

――ありがとうございました。見た目からの想像以上に、宗教的感性が本当に強い方だなという気がしました。常識への違和感を持ちつづけるだけでなく、しっかり実践に落とし込んで僧侶として生き抜いていくパワーを感じます。最後に、改めて稲田さんにとって僧侶とは何でしょうか。

稲田 僕にとって僧侶とは、常に悩んでいる存在、誰よりも悩み抜いている存在です。僧侶であるなら常に変わり続けていく、それくらいの生き方をしたい。それを「変態」って呼んでいるんですけど。「諸行無常」「諸法無我」って言うくらいですから、じぶん自身が周りとの関係性の中で生きていることを自覚し、「私」や「世界」のありようを固めちゃうんじゃなくて、常に周りと同調し、協働して生きていくってことですね。絶対に意固地であってはならず、時代とともに変わりながら生きていきたいって思います。

2500年前から紡がれてきた世界観や言語があるって、めちゃくちゃありがたいと思うんです。BUMP OF CHICKENの歌詞の深淵な世界を、「これは諸法無我だよ」って一言で言えてしまうことのありがたさ。一方で、それを一言で言えてしまうこわさもあって、じぶんの頭で考えることを僧侶自身が忘れてしまったり、分かったふりをして仏教を説くだけのマシーンになってしまうかもしれない。だから、僧侶である自分と戦うのが僧侶であり、仏教って真理だと思いますけど説いているだけじゃダメなんだと思っています。

撮影:オガワリナ(リンク https://twitter.com/Rinatie

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稲田瑞規
(浄土宗称名寺副住職 ※家出中)