3/24-30 ヒスロム「人と伝書鳩」展を開催いたしました。
ヒスロムの「人と伝書鳩」展が、2017年3月24日から30日まで、應典院2階の気づきの広場で開催されました。ヒスロムは、加藤至、星野文紀、吉田祐からなるアーティストグループとして、2009年より活動を開始。造成地の探険で得た人やモノとの遭遇体験や違和感を表現の根幹に置き、身体を用いて土地を体験的に知るための遊び「フィールドプレイ」を各地で実践し、映像や写真、パフォーマンス作品として表現しています。彼らは2013年に伝書鳩という「異類」に出会い、「人と伝書鳩」が出会う妙と面白さを映像等で発表してきた他、應典院でも過去2度にわたり、「子どもと伝書鳩」に関わるプログラムを開催してきました。2014年には展覧会『大家さんの伝書鳩』を実施。2015年の「キッズ・ミート・アート」では、鳩のワークショップやイベントと共に、飛べない伝書鳩について考える展示『ユニーク病院〜レース鳩、ただいま休憩中〜』を行ないました。
今回の「人と伝書鳩」展でも、伝書鳩の無事の帰還を祈り、皆でお念仏した後、お墓の中で伝書鳩を飛ばし、その飛んでいく軌道を皆で静かに見つめる時間を持ちました。また、子どもたちの参加のもと、ひとり一人が手に持って飛ばす鳩を箱に入れて歩く「伝書鳩ピクニック」などを開催しました。子どもの持つ力と、宗教空間で行う異類の「いのち」を想う行為から、アーティストと子どもという「稀人=マレビト」が大人たちを巻き込みつつ、「異人たちの自由な蠢き」が聞こえる異空間へと変化していく様子がお寺の境内でみられました。
以下、ヒスロムも参加した「キッズ・ミート・アート2015(KMA)」のレビュー集で、應典院の秋田光彦住職が書かれた文章を再掲致します。なぜ、應典院が「子どもとアート」のプログラムを行うのか。そこに秘められた意義を汲み取っていただけたらと念じています。
「子どもとアート」という企画であれば、どこの街で開催していても不思議ではない。KMAの特異を挙げるとすれば、開催地がお寺であるがゆえ、本堂や境内、あるいは墓地などの宗教空間から、強く匂い立つものがあるからだ。それを、子どもがもともと孕む異人性といって差し支えない。
近代以前、子どもは異界を生きる存在であった。その自由奔放さ、闊達であり無作為であり、またいたずらや乱暴を働く子どもは、現実の俗世間を超えた「童」であり、人々はそこに神の憑依を感じとっていた。誰の子どもでもない、産神(うぶがみ)の霊力の元に置かれていたのである。
近代の家族制度のもと、子どもは親に養育され、制度保障の中で権利の主体として保護されるようになった。また将来の有為な人材として教育され、国家社会に貢献することを要請されるに至る。つまり、合理的存在に「育つ」引き換えに、異人としての子どもは消散していったのである。
KMAの子どもたちが、なぜおもしろいか。行政や学校が仕掛ける「子どもとアート」が、一定の体制に組み入れる企みである反面、ここでは宗教空間がその異人たちの自由な蠢きを引き立たせるからに違いない。墓場で鳩を飛ばす。本堂で声明を唸る。糸を紡ぎ、水粘土をねり、にじむ墨で山や川を描く。即興のピアノ演奏にのせて子どもたちが乱舞する。目的とか効果とかとは一向に結びつかないが、その都度、何者かに呼応するように、子どもの身体に潜んだ直感が勢い立つのである。アートとは、表現された成果というより、そのように思いがけない受像器の中で新たに描き直されるものではないのか。
寺には仏がいる。死者がいる。彼岸があって、浄土がある。目には見えない壮大な物語に抱きしめられて、子どもは子どもの内なる異人に出会うのである。
(應典院住職 秋田光彦)