【開催報告】秋田光彦「仏教+よもやま話vol.3 よわさの力 わたしもあなたも、みな凡夫」を開催しました。
去る9月27日に、應典院住職・パドマ幼稚園学園長の秋田光彦による「仏教+よもやま話」第3回目を應典院ロビーにて開催しました。今回も25名ほどの保護者の皆様に集っていただきました。大蓮寺徒弟・沖田都光の発声で「同称十念」および浄土宗元祖法然上人御遺訓「一枚起請文」をみなでお称えしてから開会となりました。
秋といえば「読書」。應典院ロビーにも「めぐるライブラリー」があり住職の蔵書も多数置かれています。無類の読書好きの住職ですが、インターネットやSNSで溢れているものは「情報」であり「知識」とは異なるものと言われました。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆,集英社新書) というベストセラーで「ノイズ」という言葉で表現されていますが、読書をすると必ず自分と関係のない部分に出会い、あそびや余白が広がり、それこそが知識になると説明されました。
つづいて秋にふさわしい「掃除」について。学校教育で掃除が組み込まれているのは日本特有だということをみなさんご存じでしたか。『スペシャリスト直伝!小1担任の指導の極意』(宇野弘恵,明治図書出版)には「雑巾の役目は、汚れを雑巾に移すことです。これがわかっていないと、雑巾を滑らすだけで『拭いた』つもりになります」と書かれており、「自分が大変な思いをすることで、他を輝かせるという『雑巾がけ』の精神」を紹介されました。自分を汚すことで他をきれいにするというという本質は、じつはお釈迦様の十大弟子である周梨槃特(しゅりはんどく)の物語に繋がります。「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」と称えながらひたすらに掃除をすることで悟りをひらいた方です。周梨槃特は、他を綺麗にするために自分を汚していながらも、しかしそれは自分の心を磨いているということなのだと気づかれたのです。
大蓮寺の先々代住職である秋田光茂(應典院・光彦住職のお父様)も晩年まで、下寺町交差点から山門付近、そして境内と毎日数時間かける「掃除道」を歩まれた方だったそうです。お父様の陰徳のふるまいから、本当の意味の「楽(安楽)」を得ることができるのではないかと、住職は懐かしそうにお話されました。
そして法然上人の「衣食住の三は、念仏の助業なり」を紹介されました。日々の生活は、念仏のためにあるということです。私たちはどうしても掃除などの煩わしいことを排除しがちです。お寺では、作務と呼びますが、日々の雑事を心のトレーニングとしてつづけ、雑事があるからこそ自分をつくり、おかげで日々の楽しみを感じることができると考えます。頭をからっぽにして作務に取り組み、そしてお念仏に修する、これが法然上人の残された教えだと話されました。この「からっぽにする」ということは、今回のお話のタイトルにもある「凡夫」と繋がっていきます。
また、今回のお話のテーマは「弱さの力」でした。日本人は古くから悲しみを表現してきました。万葉集には死別や悲恋の数々が描かれ、本居宣長の「もののあはれ」や西田幾多郎「哲学の端緒は悲哀の感情」、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の「どうしてぼくはこんなにかなしいのだろう」という言葉など、日本人の心に受け継がれてきた悲しみについてお話がありました。ここで住職は、法然上人の弟子で最も有名なひとりである親鸞聖人について話されました。親鸞聖人は、阿弥陀様の前でどう悲しめば救ってもらえるのかを考えた方であったそうです。『往生礼賛』には次のようにあります。
「三品(さんぼん)の懺悔(さんげ)」
懺悔には身の毛孔から血を流し、眼からも血を出す/上品(じょうぼん)
全身の熱汗が毛孔から出て、眼から血を出す/中品(ちゅうぼん)
全身に熱をおび眼から涙を流す/下品(げほん)
ここで住職は、阪神淡路大震災での支援活動の体験談を語ってくれました。あるご家族からお子様のご供養を頼まれ、見つからないお体の代わりに、遺された赤い靴を祭壇に祀りお勤めされたそうです。その場にいるご家族も僧侶たちも皆が声にならず、悲しみの涙を流しながら悲痛の想いでお称えされたそうです。
愚かで弱い私たち凡夫のまわりでは、先に記した「下品」のように、深い慟哭をもって、阿弥陀様の慈悲にお頼りにするほかないことが起こってしまいます。住職は「慈悲」とは何でしょうかと問われました。「すべての生き物が苦しみから解き放たれ、幸せを得られますように」と願うことで、「慈」は「抜苦与楽」を意味するそうです。また、人間の慈悲の心(小慈悲)と弥陀の慈悲(大慈悲)があると説明されました。
「慈しみ(いつくしみ)」と「悲しみ」は連鎖し裏表のように交じり合います。悲しみは、自他ともに慈しみを揺り動かし、親密な共感を生んでいくものだと話されました。人はいくら年を重ねても、常に弱さを持ち続けます。それを我慢や恥に隠してしまおうとせず、弱さを自覚し、自分の愚かさを認め、ともに歩むことのほかに道はありません。
今なお、能登では災害がつづいています。悲しい出来事が起こるなかで、一人ひとりができうる限りのことを考えながら「共生(ぐしょう)極楽成仏道」へと繋がる生き方をしていきたいものです、と締めくくられました。
最後に今後のご案内などをさせていただき、「同称十念」をもって終了となりました。お忙しいところお越しくださった保護者の皆様、有難うございました。