
2025/6/26【住職ブログ】A I時代のお墓参り。弔いとテクノロジー。
最近、若い家族がA Iを使い始めました。音声で気軽に相談して、返事次第ではワイワイ盛り上がっています。私はなんとなくおっかない。こころの領域にテクノロジーがコミットしてくることに忌避感があります。恐れ多いのです。
昨今、対話型AIは、ますます人間もどきとなって、画像や音声まで使えば本当の人間とのコミュニケーションと近づいてきています。並行して、A I中毒もあれば、A I依存症もあって、実際に、去年2月にはアメリカで14歳の少年がAIチャットに没頭した行方、自殺をしてしまったとされるケースも起きています(「AIとしか話せない現実に懸念」Yahoo!ニュース6/15)。
私が一番関心を持つのは、同じYahoo!ニュースでも指摘していましたが、私「死者の生成」という可能性です。
存命中の家族との膨大なデジタル記録を蓄積して、それを対話型AIに読み込ませて、あたかも生きているかのように生成することが可能となっています。すでにアメリカや中国では商品化されているし、日本でも葬儀や納骨堂に現れる「A I故人」がいます。これには拒否感はあるでしょう。死者への冒涜だ、尊厳を守れ等々、批判は百出しているし、私の実感もそれに近いものがあります。
しかし(ここは複雑な内容となるので、飛躍するが)、これがより「真っ当なもの」として、受け入れられるような環境が整えば遺骨や位牌と同様に、「故人との連続性」はテクノロジーによって担保される時代が来るのかもしれません。無論倫理的な問題、プライバシーや表現の問題など、それが「真っ当」といえるまでの検討事項は山積みですが、しかし(これまでもそうであったように)テクノロジーの驚異的進展がそれを軽々と凌駕していくのかもしれないとも思えるのです。
そこで、熟慮するに、われわれ仏教が受け継いできた葬儀儀礼とか供養とか、弔いの姿は、いったいどのような意味をもつのでしょうか。死者との関係性を紡いできた伝統的なシステムはどのように作用するのか、これは相当に「恐れの多い」難問として考え込んでいます。
ちなみにA Iに「そんな時代にお墓参りはなくなるのか」と質問してみました。
回答「でも、やっぱり直接個人にお身を馳せることや、家族で集まる場としてのお墓の役割は変わらないと思いますよ」
とのことでした(笑汗)。