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12/8~15 mizutama写真展「wearは食べない」アーティスト後記

展覧会「wearは食べない」を終えて

iPhoneで写真を撮るという行為は日常の中の出来事で、狙ってもないし力んでもない。

現代においては、多くの人が日々行っている事に過ぎず、それを人に見せるものにしてしまっているのが僕の写真だと思っています。ただ僕の写真を見た事がある人は、それがただの記念写真やスナップのような見た目をしていない事が分かるはずです。

僕は2年前に此花メヂアと言う共同アトリエに住み始めた事がきっかけで、作品を作り展覧会に参加することを始めました。その他にも、梅香堂、黒目画廊、FLOATと言ったスペースが近所にあり、自分の暮らしの中では、オルタナティブスペースが遊び場になりました。その環境に身をおくことで、作家のつくる作品も、日常的に街に溢れているものも、有る意味大差がない感覚が芽生えたのです。

立ち飲み屋が店じまいした後に椅子を机の上に置いて、のれんが無造作にころがってる事が何よりドキドキする作品の様に思える事があります。しかし残念ながらこの様な感覚は言葉にしても非常に伝わりにくく、それを目で見える形にしたのが僕の撮る写真といえます。単純にカッコよく切り取る、一つに焦点を当てる。そんな手法でライトに、iPhoneを使って日常の中で撮り続けています。

今回の展示で額装していた写真はiPhoneの中にあったものだけで構成されています。今回は初めての試みで、この街の写真を撮って展示するために何度か散歩しながら写真を撮りました。しかし、写真を撮りに行くという行為が自分にとってはとても不自然な行為であり、なかなか苦労しました。幾度か散歩していると気になったものは、多くのお寺の合間に現れるラブモーテルや新しいマンション、人工的に植えられた緑などなど。それらを写真に撮って展示するのではなく日用品などを使い構成することを思い付いたのです。街の中で誰しもが目をつけるLoveモーテルの看板を、象徴(ニューヨークでの自由の女神的存在)と考え大判のトレーシングペーパーで出力し、中央に吊り下げました。つまり、日用品と写真数点を組み合わせた展示自体が一つの街の写真(縮図)になっていたのです。その事は誰にも伝わらなかったので大成功の展覧会でした。

そして何よりも、様々な方が展覧会に来てくださり、オープニングトークでは仲間が駆け付けてくれて、僕のある種冗談みたいな展覧会についてバカバカしいと笑ったり、ヤバイとニヤニヤしたりと、日常の中に突然起きたこの出来事自体が僕が本当に作りたかった作品なのです。

今回はこのような機会を与えて頂き感謝をしています。

mizutama

「気配」系のこころみ

「立ち飲み屋が店じまいした後に椅子を机の上に置いて、のれんが無造作にころがってる事が何よりドキドキする作品の様に思える事があります。」
「しかし、写真を撮りに行くという行為が自分にとってはとても不自然な行為であり、なかなか苦労しました。」

mizutama君の感性がよくみえたビビットな文章である。初めて作品を見せてもらった時から、mizutama君のキーワードは「気配」な気がしている。店じまいした立ち飲み屋、無秩序な部屋の窓辺、ビルの明かり、街の電飾、植木鉢をずらした後のさび…など誰かの暮らしや存在はあるんだけども、その人はみえてこないし、みえてもそれが主役じゃない、みたいなところがいいなあとあらためて思う。たぶん、mizutama君にとって「写真を撮りにいく」という行為が「不自然」なのも、その人物だったり事象など、主役になるものを探しにいく「作為」があるからなのかもしれない。むしろ、何か考え事をしていてふと上をみた時の風景の静かさとか、夜中まで仲間達と深酒をしていてトイレにたった時偶然に窓からみえた街のネオン、なんかが強烈に美しかったりする、その感覚なんだと思う。

その意味で、今回の展覧会では、彼に大きな無理強いをしたのだが、それはあらためて「作為」について考える試みでもあった。應典院のある下寺町の風景をフィールドワークして、わざわざ何かを「撮りに行って」もらう。「狙ったり力んだりすること」を極力避ける作家に対して、そんな「目的」が与えられた時、iphoneで偶発的に切り取られる気配とはどんなものだろうか、そんな「作為」があった。そして、そのお題に対して、mizutama君はそのディスプレイの中で巧妙に「作為」返しをしてくれたように思う。

今回の展示では天井から吊りさげられたラブモーテルの大判写真を起点に、パイナップルや洗剤の容器などの芳しい日常をちりばめながら、應典院が位置する場所を地理的に俯瞰する構図を秘密裏に仕込んでくれた。その隠された意図そしてタイトルの意味ですら、結局また気配として、大きく主張されずに展覧会は幕を閉じたのだけれど…。

「作為」と「無作為」の境界にあるmizutama君の表現を、これからも期待したい。

小林瑠音(應典院アートディレクター)