イメージ画像

2018/6/28 北村敏泰:特別寄稿 「應典院再建20周年記念シンポジウム」を読み直す(前編)

芸術、文化、学術や社会問題に関する様々な催しなどに取り組んで来た都市型寺院の應典院。その再建20周年を記念したシンポジウムが3月2日に開かれ、地域社会の拠点としての應典院の歴史を通してこの間の社会と宗教界との関わりの推移が論議された。

スピリチュアルケアや病院でのチャプレン活動に従事して来た浄土宗願生寺住職の大河内大博さんは、同院で繰り広げられたいろんな企画に「現場にいかに関わるのかと問われ、寺を出て社会の中で役に立ちたいと仕事を続けた自分と宗教界、世間との位置付けを示す座標軸を示された」と発言。コーディネーターも務めた佛教大教授・大谷栄一さんは、メディアで頻繁に報道された同院の取り組みとその時代の社会状況との関係から「新たな都市寺院として、市民や若者、NPOとの協働による『もう一つの公共』の役割を果たしている」と論じた。

宗教学者で上智大グリーフケア研究所長の島薗進さんは、イラン革命以降の世界的な世俗社会の宗教回帰、国内での阪神・淡路大震災から東日本大震災を経て宗教者のあり方が問われた状況の中に寺院の役割を位置付け、「スピリチュアルへの関心も実は宗教回帰。知識や技術が進んでも人々が精神的な空洞感を抱える中で伝統仏教の存在は重要だ」と指摘した。

秋田光彦・應典院住職は「そもそも寺院は学び、癒し、楽しみの場という公共性を持っていたはずで、地域に根付いてそれを発揮していく。通仏教や超宗派を言う前に『単独僧』としてどれだけやって来たかだ」とのべ、葬送をキーワードに今後への決意も披歴した。

詳録を前中後の3部に分けて報告する。(ジャーナリスト 北村敏泰)


まず初めに、大谷栄一さんがコーディネーターとしてシンポジウムの趣旨を説明。「1995年の阪神・淡路大震災とオウム真理教事件を契機として97年に再建された大蓮寺塔頭應典院は、以来20年にわたって地域に開かれた寺院、若者が集まるお寺、社会に参加する寺院として活動を積み重ねて来た。この20年間の『社会と宗教』の関係の変容を應典院をリトマス紙のひとつとして検討し、應典院が果たしてきた役割とこれからの役割を議論したい」とした。

その上で、現代社会の中での宗教の役割についての著述が多い上田紀行、池上彰、弓山達也、中島岳志各氏による特別座談会「1990年代以降の激動する社会と宗教をふり返る」に言及。「個人的な宗教意識、スピリチュアリティへの関心の高まりから、死に関わる慰霊や追悼の力、地域に根差したお寺や組織を持った宗教の力への関心へ。大文字の『社会』と小文字の『社会』。宗教の個人化と宗教の地域性。これらの論点の中に應典院の活動を位置付けたい」と述べ、このシンポジウムの流れを提示した。

シンボリックな“挑発”と“座標の場”(大河内さん)

論議の前半1巡目では最初の発題者として、「應典院再建の時は私はまだ高校生でした」という大河内大博さんは、應典院という社会に開かれた都市寺院を通じて仏教界や社会との関わりを見極めて来た自らの歩みを語った。

「当時、應典院設立の趣旨を理解していた訳ではないが、機関紙『サリュ』での対談企画に呼ばれたのが最初で、20年間の後半に関与した。その中での私にとっての應典院を二言で表現すると、“挑発”と“座標の場”。僕を挑発してくれる、常に何かに挑戦するシンボリックな場であり、『お前はどうなんだ』とこちらを挑発してくる。後者は僕の医療現場への関わり(に関して)。終末期がん患者さんを相手にするホスピスやビハーラや在宅医療で、対患者、対家族のケアというミクロの中で関わって来たが、それが社会にとって、あるいは仏教界にとってどういう意味があるのかをあまり考えていなかった。だが應典院が様々な企画をしてそれを示してくれる。私がやっていることは社会的にはこうなんだなあと」

これは、現在まで目覚ましい活動を続ける現場の僧侶に、應典院が少なからぬ影響を与えたことを物語っている。続いて大河内さんは自らと医療と仏教との関係を語った。

「高校生の時、寺を継ぐのは嫌だと思った。『坊主丸儲け』などと揶揄されたりからかわれたりするのが普通という環境の中で成長したので、寺を継ぐことに積極的な意義を見出せない世代だった。じゃあどうするのかと自己のアイデンティティ確立に悩み、社会の中で役に立ちたい、必要とされたい、それがないと継げないなと感じた。私の場合はそれがたまたま医療で、ビハーラやホスピスに大学2年の時、1999年に出会った。しかしビハーラは当時まだまだ浸透しておらず、何とかこれを広め、自分がその場に立ちたいと思い、自分から現場に入った。

医療と仏教で言えば、2012年に東北大学で実践宗教学寄付講座ができ、16年には日本臨床宗教師会が発足。同じころ、臨床仏教師というのも誕生した。日本スピリチュアルケア学会はスピリチュアルケア、平たく言うといのちのケア、生きがいを見失った人をどう支えるかということを専門的にし、この3つが社会に出て来た。また3.11の東日本大震災以降、グリーフケアも注目され、多くの僧侶らが学ぶようになり、これまで培われていたものが、一気に出て来た」

都市寺院から、もう一つの公共を(大谷さん)

大谷さんは、メディアで應典院がどのように報道されたのかというアプローチでキーワードを挙げて発題した。まず自身の應典院との関わりは上田紀行著『がんばれ仏教』(2004年)を通じて知ったことが最初だとし、自らが編集した論文集『地域社会をつくる宗教』(2012年)に山口洋典氏(当時主幹)に「地域社会と寺院」を寄稿してもらったことを紹介。2016年5月にジュンク堂書店難波店で開いた共編著『近代仏教スタディーズ』刊行イベントで来場した秋田住職に初めて会い、大変緊張したこと。同年10月の浄土宗平和協会のシンポジウム「寺院縮小時代における〈社会貢献〉を考える」に共に参加したことを話した。

そしてメディアで應典院や秋田光彦住職がどのように報道されたのかを新聞各紙などの記事の動向で説明、以下の例などを挙げた。

朝日新聞は302件――91年3月「秋田光彦さん 寺おこし 新しい文化の拠点に」。97年4月「お寺が癒しの場 賛同の会員で運営 大阪に近くオープン」。99年4月「開かれた寺 宗教こだわらず、会員制運営 大阪・應典院」。

毎日新聞は179件―97年2月「インタビュー 秋田光彦・應典院住職 寺を“癒し”の場に」。2002年8月「NPOや文化団体の活動拠点 浄土宗大蓮寺の別坊、應典院 住職が取り組み支援」。14年11月「宗教探検:いのりの現場 “イベント寺”應典院 死者のそばで生を尽くす」。

読売新聞は165件――97年2月「僧侶・秋田光彦さん 出会いは人生劇」。03年6月「宗教を考える 脱“葬式仏教”への試み 寺で演劇やNPO活動など」。17年5月「“寺と社会”新しい形脈々と 大阪市の應典院 再建20年」。

また新聞・雑誌の宗教関係の記事や教団情報の収集と公開など現代宗教に関する幅広い情報を収集分析している宗教情報リサーチセンター(RIRC=ラーク)のデータから、1989~2018年1月の「應典院」の報道数の増減グラフを示し、この30年間の総数は318件だったと紹介。その中で初出は、「應典院」が92年6月の雑誌『現代』の「仏教の堕落 第3回」、「秋田光彦」は89年11月の『読売新聞(大阪版夕刊)』の「ヤング僧らが“お経ロック” あす天王寺で」だった。

大谷さんは、これまでのメディアの記事のうち、「應典院再建前の1990年代の記事から浮かび上がるキーワードがある。その背景にバブル経済による土地高騰がある」と指摘した。宗教者や寺院の営みも、そのような社会状況の中に位置づけるのはなかなか興味深い。そのキーワードとは「都市寺院」、そして應典院再建後は「もう一つの公共」から「協働」という語も挙げた。

大谷さんによると、90年2月『朝日新聞』の「変わる都市寺院 もう“お墓”だけじゃダメ 檀家減り信仰も“不在” 環境激変に危機感募る」に秋田住職が「教化情報センター21の会」事務局長として登場。同年12月の『京都新聞』「都市寺院ルネサンスに意欲」という記事もある。また93年3月の『朝日新聞』「新しい都市寺院創造」というインタビュー記事では、秋田住職は「確かに都市の中で聖地を守っていくためには、ある程度殻に閉じこもらんとしょうがない。でも、どっかで現実の社会を関連づけながら、新しい時代の都市寺院を模索していきたい」と発言しており、現在に至る住職の姿勢の“原点”が提示された。

そして97年4月に落慶法要に至った「應典院という場」について、同年2月『毎日新聞』「寺を“癒しの場”に 本堂は劇場空間 文化拠点目指し」、10月『産経新聞』「“劇場寺院”にNPO集合」、2000年10月『読売新聞』「寺を学びの場に 地域と連携 NPO化の動き」と記事を挙げ、「この頃の秋田さんはとんがっている印象」と評した。

そこで挙げられた「もう一つの公共」という言葉は、01年8月『中日新聞』「お寺ルネサンス 都市の寺院を開く」で「官製のお仕着せでない、もう一つの公共の場を、市民と協働しながらどのように創造していくのか、それが應典院に課せられた、お寺の古くて新しい使命なのである」との述懐に表現されており、そこから「協働」もキーワードとされた。07年12月『佛教タイムス』「應典院再建10周年 お寺と市民が協働 芸術文化を創造し、地域共生の拠点に」や15年1月『中外日報』「若者、市民と協働 寺を“結縁”の場に提供」が具体例として示された。

スピリチュアル志向を伝統仏教で支える(島薗さん)

「應典院のこの20年の歩みは日本の宗教史上に残る展開があり、素晴らしい」と称賛した島薗進さんは「20世紀後半に世俗化が広がった後、宗教回帰が世界の潮流となった」と「宗教の世俗化と再聖化」の俯瞰的視点を交えて、社会と宗教という文脈から発題した。

「私は医学部で理系だったが1969年に文系に転じた。なぜ宗教学を選んだか。東大の宗教学はフィールドワークで、書物の中の学問よりいいから。また自分の中の求道だった。60年代は米国でカウンターカルチャーが盛り上がり、ベトナム反戦運動、フランスのパリ5月革命があり、70年代は政治の季節ではなくニューエイジや精神世界が取りざたされた。その中で宗教研究を始めたが、78年にイラン革命が起きた。それまで革命とは宗教を否定するものだったのに、宗教による革命だ。それ以降、イスラームの動きが活発化し、米国では福音派が台頭するなど世界的に宗教回帰が進んだ。

80年代にスピリチュアルへの関心が高まり、私はそれを横目で見ながら研究したが、スピリチュアルは一見、伝統的な宗教から離れるように見えるが、実はやはり宗教回帰だった。冷戦終結後は世界的に諸宗教が動きを見せ、キリスト教圏とイスラーム圏との『文明の衝突』が言われる。その中で日本では、95年のオウム真理教事件が大きな切れ目となり、同年には阪神・淡路大震災も起きた。伝統宗教は何をしているのかとの声があったが、私は伝統宗教が次第に力を出していると考えていた。そのような中で應典院が再建され、未来を切り拓いて来た。若者のスピリチュアル志向を伝統仏教で支える取り組みだ。

2011年の東日本大震災は大きな節目。阪神大震災と違ったのは伝統宗教への期待が強く、活動が注目されたことだ。阪神という都市と東北という土地の違いもあるが、伝統宗教回帰という時の流れもある。だが一方で、安倍政権になり別の伝統回帰、日本会議とかネット右翼とかの動きがある。それはなぜか。人々が心の中が空っぽだと思うからだ。知識も技術も進んで何でもできると思うが、心には空洞がある。近代文明の病が重篤化しているということだ。しかし、日本会議の動きには希望は持てない。対して、應典院の働きはNPO的なものもあるし、宗教的な動きでもある。それが支持されている。他にも、子供食堂や哲学カフェ、デスカフェなどが広がっており、これらに関心を持つ人々は求道的であり、しかも体でその意義を感じ取っている」。

島薗さんのこの発題は、應典院がこの20年間、時代を先取りして走って来た、しかも目先の新奇さではなく、その時代の精神性から来るニーズにマッチした試みを続けて来たことの背景説明として重要だ。(ジャーナリスト 北村敏泰)

中編につづく

人物(五十音順)

大河内大博
(浄土宗願生寺住職  訪問看護ステーションさっとさんが願生寺 共同代表・チャプレン)
大谷栄一
(佛教大学社会学部教授)
北村敏泰
(ジャーナリスト)
島薗進
(上智大学グリーフケア研究所所長・東京大学名誉教授)