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2018/7/5 北村敏泰:特別寄稿 「應典院再建20周年記念シンポジウム」を読み直す(中編)

芸術、文化、学術や社会問題に関する様々な催しなどに取り組んで来た都市型寺院の應典院。その再建20周年を記念したシンポジウムが3月2日に開かれ、地域社会の拠点としての應典院の歴史を通してこの間の社会と宗教界との関わりの推移が論議された。

スピリチュアルケアや病院でのチャプレン活動に従事して来た浄土宗願生寺住職の大河内大博さんは、同院で繰り広げられたいろんな企画に「現場にいかに関わるのかと問われ、寺を出て社会の中で役に立ちたいと仕事を続けた自分と宗教界、世間との位置付けを示す座標軸を示された」と発言。コーディネーターも務めた佛教大教授・大谷栄一さんは、メディアで頻繁に報道された同院の取り組みとその時代の社会状況との関係から「新たな都市寺院として、市民や若者、NPOとの協働による『もう一つの公共』の役割を果たしている」と論じた。

宗教学者で上智大グリーフケア研究所長の島薗進さんは、イラン革命以降の世界的な世俗社会の宗教回帰、国内での阪神・淡路大震災から東日本大震災を経て宗教者のあり方が問われた状況の中に寺院の役割を位置付け、「スピリチュアルへの関心も実は宗教回帰。知識や技術が進んでも人々が精神的な空洞感を抱える中で伝統仏教の存在は重要だ」と指摘した。

秋田光彦・應典院住職は「そもそも寺院は学び、癒し、楽しみの場という公共性を持っていたはずで、地域に根付いてそれを発揮していく。通仏教や超宗派を言う前に『単独僧』としてどれだけやって来たかだ」とのべ、葬送をキーワードに今後への決意も披歴した。

詳録を前中後の3部に分けて報告する。(ジャーナリスト 北村敏泰)

医療現場の『単独僧』として(大河内さん)

シンポジウムの論議の前半2巡目では、宗門からは独立した立場で活動して来た大河内大博さんが「伝統教団の20年の変容」の視点から発題した。

大河内さんは「伝統教団を語れるほどの経験はないが、2001年からビハーラに関心を持って現場でやって来た。私は布教するためのお袈裟を(教団から)頂戴したものの、務めとしてそこに込められた教義、教学、救いをしっかり広めるという宗教者の第一義的役割からすると、そこからある種一線を画して、布教伝道を目的としない形で社会に関わっていく。それがケアの営みだが、それはいささか矛盾するようにも見えるし、それをお前がやることの意味はどこにあるという問いも常に湧き起こる。そんな中で患者との出会いの中で常に大事にして来た。寺の中にいると社会の生の悲しみや苦しみに触れられないと考えていたので“外”へ出る。私の場合はそれが医療現場だったが、そのことで教団の後ろ盾や還元するといったことは考えていなかった。社会に出てゆく宗教者を秋田住職は『単独僧』と位置付け、それは教団の力を借りずに活動する存在だ。私も始めて10年間は、活動を教団から無視されて来た。だが邪魔はされなかった。そして3.11以降は、やや協力的になった。私たちのような者が注目されている、教団が変わりつつあるという印象がある。

でも、まだ閉鎖的な面もあり、『住職10年もの言わず』という言葉がある。一方で例えば浄土真宗本願寺派がビハーラ僧養成などになかなか力を入れている。外部も含めて様々な講師を招いて、教団内だけでなく社会のいろんなリソースを.取り入れている。教団もこれから変わって行くと思う」。

ここで、伝統仏教の僧侶が大河内さんの例のように、医療や貧困問題など世間からは一見、仏教とは無関係なように見られがちな場で活躍することについての所属教団との関係がどのようなものであるのかが示された。筆者は例えば貧困や自死問題に長年取り組む僧侶からも同じような事情を打ち明けられたことがあり、活動の初期は教団から「無視」あるいは「揶揄」されたが、マスコミなどで取り上げられるようになると研修会の講師に招くなど掌を返したような対応だったという。大河内さんのような存在が「良心的部分」として教団全体の社会的評価を高めている、あるいはもっと言えば、評価が下がるのを食い止めていると言えよう。ここで言われた「単独僧」たちはいずれもその所属する宗派の教義を空調の効いた本堂で「コトバ」でおしゃべりするのではなく現場で「行い」で示す、言い換えれば、根幹である宗祖の教えと深い信仰とを「行い」の底にしっかり抱え持っている。そのことが、本来は教えを根幹とする僧伽であるはずの教団の硬直化してしまった部分にとっては煙たいのかも知れない。

ソーシャル・キャピタルとしての宗教(大谷さん)

続いて大谷栄一さんは「『社会と寺院』の20年の変容」として発題した。大河内さんの発題を受け、僧侶と教団の“中間”に位置する「寺院」について、専門である近代仏教を中心とした歴史的展開の中で論じた。

まず「『社会と寺院』の400年」として、「近世前期、17世紀初頭の寺請制度の成立によって今の寺のあり方の基礎ができた」と提示。「明治以降も家と寺院の世襲的な寺檀関係が継続されたが、戦後に家制度が解体され、寺檀制度が衰退した」と述べた。そして、50年代半ばから70年代初頭の高度成長期の都市化、産業化、核家族化という社会変動を経て、80年代後半以降に既に「過疎化と寺院」という今日、仏教界を揺るがせている問題が萌芽していたと指摘、88年のNHK特集『寺が消える』を挙げた。「『社会と寺院』の20年の変容」に関しては

「2000年代以降、上田紀行『がんばれ仏教!』のように仏教者や寺院の社会活動に注目が集まる。背景として、1990年代以降のEngaged Buddhism(社会参加仏教)の研究が進展したことがある。上座部仏教が利他的活動をしているということが広く知られた。ここで重要なことは、仏教者や寺院、教団に対する世間のまなざしの変化があるということだと思う」。

そして、「1995年のオウム真理教事件と阪神・淡路大震災、2000年から2008年の公益法人制度改革、2011年の東日本大震災を経て、仏教者や寺院、教団の公共性、公益性(公共空間における仏教の公共的役割)が問い直されている。また、2000年代半ば以降の『宗教の社会貢献活動』研究の進展も影響している。「社会貢献」とは何を意味し、誰がそれを決めるのかという批判もあったが、宗教は社会貢献しなくてはならない、という流れにはなった。いいか悪いかは別にしてだ」。

論議は「ソーシャル・キャピタルとしての宗教」につながる。この問題を提起し、研究・発信し続けている稲場圭信・大阪大学教授も会場に顔を見せており、大谷さんは「2014年から15年にかけ、鵜飼秀徳著『寺院消滅』などから、過疎化と寺院という問題が浮上した。その中で、稲場先生らによって宗教の社会貢献研究の進展があり、そこからソーシャル・キャピタル(SC)研究が生起した。SCとは、信頼、互酬性の規範、ネットワークという社会組織の特徴。地域や会社などいろんなところにあり、宗教の中にもそれがあることを稲場先生が明らかにした」。

そして「地域社会をつくる宗教」との文脈で、櫻井義秀・稲場圭信監修「叢書 宗教とソーシャル・キャピタル」全4巻の刊行(2012~13年)などを挙げた上で、「宗教者と市民が『共にする』こと(R・パットナム)つまり協働によって、宗教者たちが地域社会の中で公共的な役割を果たすことに期待が語られ、地域ガバナンスが大事だという議論が出て来た」。その中での問題点として、櫻井・川又俊則編『人口減少社会と寺院――ソーシャル・キャピタルの視座から』(2016年)での指摘のように「寺檀制度を地域密着型であるがゆえのソーシャル・キャピタルと捉えなおす」ことも大事だと語った。

さらに、「仏教者や寺院の特別な社会活動ではなく、『寺院の日常的活動』への注目も大事だ」と指摘。現代の寺院の2類型として櫻井による「Being型」と「Doing型」を提示し、「前者は寺がそこにあることで住民に安心を与える。後者は特別な社会活動をすることであり、應典院はこの典型だ。しかし、今の寺院はどこもBeing型でありDoing型でもある。ひとつの寺院の両方の側面を見る必要がある」と結んだ。

この最後の論議は、実は應典院および秋田住職がこれからやろうとしている取り組み、あるいは古刹としての大蓮寺と塔頭應典院との関係にもつながると見られるのだが、「寺院淘汰時代」にあって重要な視点だろう。過疎地と都市部とを問わず、「このままでやって行けるのだろうか」と苦悩する現代の寺院にとって、決して「AかBか」「ゼロか全てか」といった極端な二者択一のみが歩む道ではないことを示しているからだ。日常法務にせっせといそしみ、余裕のある時間や場所、人材を活用して「特別な社会活動」をすればいいだけのことだ。いや、「特別な」必要もない。例えば檀家や地域の住民の日常の様々な悩み事の相談に真摯に対応することがそれだ。それは「日常法務」でも「特別な」でもないけれども、立派な社会活動と言えるだろう。その内容は、例えば団塊の世代に対するエンディング・終活の相談であったり、檀家の女性が妊娠した際に出生前診断を受けるかどうかの相談であったりする。前者は日常法務に近接し、後者は難しい問題のように見えるかも知れないが、宗教者が「いのちの専門家」なら医療者とは異なる何らかの対応ができるはずだ。要は、寺が地域あるいは社会に「開かれている」ということがポイントだろう。檀家にのみ「開かれている」、あるいは檀家でも法事以外には付き合いが希薄というならば「閉じている」のとほとんど同じであり、超少子高齢化、人口減少と家族崩壊の世情にあって、「檀家」が増えなければ先細りが必至だからだ。

いのちとは何か、死とは何か(島薗さん)

最後に島薗進さんは「宗教研究の20年の変容 なぜ臨床宗教師なのか」として発題した。島薗さんは「この20年で、宗教を研究する側の姿勢も変わって来た。宗教学的な宗教社会学と社会学的な宗教社会学があるが、体験型、求道型の研究で求めているのは究極的なものを研究を通して明らかにすることだ」と前置きして研究者の置かれた位置について語る。

「『きけわだつみのこえ』を読むと、戦時中に軍隊にいても若者たちが本を読んで真理への道を求めていたことが分かる。彼らは真面目だが、今から見ると少し頭でっかち。本を読むことにこだわり過ぎている面がある。私は、書物の中に真理はないという感じだ。『書を捨てよ、町へ出よう』か。宗教学はアカデミックなものにやや斜に構えたところがあった。私は東京大学で教員をしてアカデミックにしっかりとやって来たが、本当はもっと自由にやりたかった。例えば共感的理解を強調した教祖の生き方の研究とか。定年の少し前から死生学をやり始めた。ケアとか医療の実践に近いところに宗教がどう関わるか。上智大学のグリーフケア研究所に行った前後して東日本大震災があり、より現場に近いところで仕事をした。学問と求道的なものが通じ合うのは、昔は若者の特権だったが、今の若者の多くは早く就職してしっかりした社会人になることを目指している。だがグリーフケア研究所で社会人教育をしていると、彼らは皆、道を求めている。例えば看護師さんは日々、人の生死に接しているし、他の人々も生活する中で、改めて宗教とか哲学に魅かれ、問わざるを得なくなり、学びたくなる時代だ」。

そして島薗さんは自らの立場に言及しながら語った。「私の問いもそれに近いところがある。自分の中にも宗教を求めて、ある程度しか近づけないことがある中で、自分にとっていのちとは何か、死とは何か、それは学問の最初にすべきことだが、それを今やってるなあと」。

最後に「学問をしながら実践の現場と関わり、それがあらゆる人が本来問う実存的問いに通じている。そうすると、私たちが大学のキャンパスでやっていることは、應典院でやっていることにも近いのではないか」と結ぶと、大谷さんがコーディネーターとして「宗教者と宗教研究者との協働、パートナーシップが大事ですね」と付け加えた。

東日本大震災で宗教者と宗教研究者とが一緒に活動する「宗教者災害支援連絡会」を立ち上げ、代表としてリードして来た、そしてそこから生まれ宗教者の社会活動スタイルの現況における一つの型として定着しつつある「臨床宗教師」にも深く関わっている島薗さんらしい発題である。おそらく7年を超えるその活動の中で、研究者としての自身の立ち位置、社会の苦難に学者はどう向き合うのかという問いを自らに発し続け考え続けてきたであろう姿勢がにじみ出ているように見えた。(ジャーナリスト 北村敏泰)

後編につづく

人物(五十音順)

大河内大博
(浄土宗願生寺住職  訪問看護ステーションさっとさんが願生寺 共同代表・チャプレン)
大谷栄一
(佛教大学社会学部教授)
北村敏泰
(ジャーナリスト)
島薗進
(上智大学グリーフケア研究所所長・東京大学名誉教授)