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2020/3/26~3/29 岡田祥子:光の領地『同郷同年』(應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2019)レビュー

去る3月26日~29日に、光の領地『同郷同年』(應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2019)が、感染防護を施し、客席の間隔を取るなど細心の注意を払い、上演されました。3人の男たちから透けて見える、国づくりとは…幸せとはなにか…突きつけられる作品。今回は、書く人・岡田祥子さんにレビューを執筆していただきました。


作家くるみざわしんの執念―『同郷同年』を観て―

 

2020年春、新型コロナウイルスの感染の脅威が日本中に広がって、舞台公演が軒並み中止されていくなか、感染防止対策を取りつつ3月26日から29日までの4日間で7公演、浄土宗應典院本堂において、光の領地の『同郷同年』が上演された。作、くるみざわしん(光の領地)、演出、高橋恵(虚空旅団)、出演、酒井高陽(田切章役)、イシダトウショウ(谷上正也役)、アンディ岸本(中本芳樹役)による5場90分3人芝居である。本公演は『應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2019』「いのちに気づく演劇プログラム」参加作品であり、『同郷同年』は「日本の劇」戯曲賞2016と第25回OMS戯曲賞大賞を受賞している。筆者は28日18時からの公演を鑑賞した。

 

舞台は谷上正也(正チャ・47歳・薬剤師)の経営する薬局の待合室という設定で5場とも変わらない。同じ場所が時間の経過で状況が変化し、雰囲気や用途が変わっていく様子が物の配置や掲示物で巧みに示される。核燃料最終処分場の事故と中本芳樹(芳チャ・47歳・電力会社社員)の自死(と思われる)という事件が劇中起きるが、観客はどちらについても待合室での登場人物の会話を通して知らされる。

登場人物は、正チャと芳チャ以外に田切章(アキラ・47歳・兼業農家)がおりアキラと呼ばれている。

本作は社会派戯曲としてのみ読んでも現実社会において「いかにもさもありなん」のリアルな精度を持つ。あらすじを紹介したい。前述したように5景に分かれている。

 

【第1景】

ある秋の日曜の午後10時過ぎの待合室。町への核燃料最終処分場誘致の賛否を問う住民投票が済んだ夜である。賛成派が大量の得票数差で大敗した。賛成派として活動していたアキラ、正チャは失意の夜を過ごしている。彼らの町は日本で初めて誘致に名乗りを挙げていた。住民投票をまたやろうと励ましあっていた2人であったが、投票結果を受けて電力会社は速やかに3人の町から誘致撤退を決めていた。後3つの町が誘致に名乗りを挙げたからである。芳チャはそのことを告げに来る。芳チャは電力会社本社社員であり処分場の誘致話を持ってきた。現時点では一番羽振りが良い。正チャは原発に反対して来た薬剤師。福島の事故の際芳チャと原発の是非をめぐって喧嘩別れしたぐらいだったが、処分場誘致には賛成している。「反原発一本でやっていける時代は終わった。これからは処分場問題だ。どっかで誰かが手をあげないといけない。」という発言がある。アキラは現状では最も冴えない。処分場が町に来ることに賛成し、田仕事は何年も前から人に頼み、賛成派として活動してきた。処分場が町に来て、会社の金も国の金も流れこんでくる町の未来像に希望を抱いてきたが、住民投票の敗北を受け、生活のため電力会社に雇ってくれるよう口を利いてくれと芳チャに頼む。

 

【第2景】

ある11月の寒い夜の待合室。薬局は経営が苦しい。正チャと芳チャが年明けに電力会社が開く講演会の話をしている。会の目的は、過去の住民投票で処分場誘致を蹴った結果、過疎化が進み町立病院までが潰れかけている町への揺さぶり。アキラは会社で初の処分場誘致を成功させ部長となり、今や芳チャを顎で使う。隣町の電力会社の病院のあおりで、町立病院は医師が逃げ潰れかけている。病院に連動して薬局も潰れたら薬学生の息子はチェーン薬局に勤めることになるとアキラは正チャを脅かす。アキラは町長を抱きこもうとしており、協力したら正チャを電力病院の副薬局長に推して息子の就職も約束すると言い正チャは従う。アキラは講演会では、芳チャには処分場が来ると町はどんなに潤うかを報告させ、正チャが反原発の立場から処分場誘致の正しさについて話し、自分は離農した今の会社での出世を見せびらかしてやると気勢を上げる。

 

【第3景】

ある夏の午後。待合室は処分場誘致運動事務所にもなっている。第二景後、処分場では事故が起きた。芳チャは逃げて会社を辞め、アキラは逃げなかった。国が金を出し会社は潰れず、アキラは出世した。彼は会社と国に頼まれ10月の県会議員選挙に出ようとしている。事故で地下には汚染水が漏れているが、首相は収束宣言をした。アキラはそれを受けて汚染水が洩れ続けているのに、事故を起こした処分場の代わりに再び町に処分場を誘致しようとしている。芳チャは止めるが、アキラは聞かない。電力病院の薬局長になっている正チャは、町長に会って町立病院の復活をかけあってきた。町立病院と言っても、電力会社に都合の良い御用病院になる予定、正チャとアキラは仲良く選挙対策の画策をし、アキラは芳チャに反対運動などせず、沈黙するように命じる。

 

【第4景】

第3景の数日後の月夜。場所は待合室であり処分場誘致運動事務所でありアキラの県議選の事務所にもなっている。アキラは芳チャに激怒している。芳チャはアキラを止めようとし、彼を排斥するための手紙を会社幹部に送り、それが漏れたのだ。アキラは凄まじい勢いで、どんな手を使っても反対運動を潰すと芳チャを追いこむ。芳チャは去る。アキラは彼の死を予感して落ちこむ。正チャは何も感じない。

 

【第5景】

ある秋の稲穂が色づく頃、芳チャが死んで反対運動は消え、処分場の誘致が決まり工事が進んでいる。アキラは県会議員である。秋晴れの昼前の改装された待合室。電力病院が建ち、リニューアルオープンを翌日に控えて正チャはうかれているが、野良着のアキラに芳チャの墓石の一部を持ちこまれて驚く。アキラは芳チャには詫び、正チャには芳チャの供養を命じ、「俺たちは同郷同年だで。」と念を押す。

 

社会派戯曲として読んだとき『同郷同年』は既視感に満ちている。劇中の出来事は、近い過去日本で起きた数々の出来事とあまりにも状況や経過が似ているし、近い未来の日本においても限りなく起きているであろうと感じさせる出来事がこれでもかと言わんばかりに詰めこまれている。言うまでもないが似ているのは、事故や事件の恐ろしさ・深刻さが、でなく、人や社会の反応・対応が、であるが。

この虚構の物語の枠組みの中で動く登場人物たちから受ける印象もデジャヴュであり、しかし新しい。少なくとも私にとっては。なぜこの国で過去に戦争が起き、戦後おびただしい数の原子力発電所が建ち、あの事故が起きたあとも許されて延々と同じ状況が続いているのか、それを産んだ日本の土壌について見えてくるものがあった。そう感じさせたのは登場人物のアキラであり、正チャであり、芳チャである。彼らは日本の各地に無数に存在したし、今も存在している。この言葉が傲慢であることはわかっているがあえて書く。彼らは限りなく痛ましく哀しく愛しい人々である。彼らについて説明しよう。

まず、アキラである。アキラは、芳チャを小作農根性の持ち主と陰口をきいていた口調から推測して、昔からの自作農の息子と思われる。しかし早くに離農している。その理由を「俺は田んぼや畑が嫌いで農業やめたんじゃない。田んぼや畑やってるとバカにされるもんでやめたんな。田んぼや畑に一度も入ったことのない人間が農業は大切、素晴らしいです、安全な農作物が食べたいですって聞くのが嫌な。」と言う。また処分場誘致運動をする理由として、都会の連中が使う電気を作って「出たゴミを引き受けて、金に換えて悪いかな。そういう生き方を選択して子供たちに残して何が悪いんな。選択の自由だでな。世の中で必要とされとることに、はい、やりますって手をあげて何が悪い。」と言う。電力会社部長に出世してから帰郷してきたとき「目的があるだろう。何しに来た。今頃。」と目的を正チャに問われて「反撃。すべてに。今ならできそうな気がするで。ここから。」と答える。鬱屈したプライドと屈折したエネルギーの持ち主である。このアキラが不気味でならない。魅力的とは言いがたいが、インパクトがあり、何という奴だと思いながらも悪人だとは言い切れない。彼は言う。

「この谷だけはきれいにしておきたい。そんな自分勝手は今、無理。通用しん。守りたいと思ったってどこも汚れちまうんだで、みんな等しく汚れて不幸にならんと。それが平等だで。ひとりだけ得しようとしたらいかん。」

ゆがんだ正義感や義侠心ではあるが変に説得力がある。彼は自分の強さをこのように分析する。

「勝つことを考えん。ほいだもんで強い。」「俺は怖くないもんでどこまでも押す。押せるんな。失って困るもんがなんにもないもんで。」「根っこを抜いてみたら、わかることがたくさんある。」「しがみついとったらいかん。」

こんな捨て身の強さを持つ彼は日本人の好むヒーローの一典型かもしれない。彼を思うとどうしようもない日本という国の構造的などん詰まりとそれを支えてきたものが見え、悲しみが押し寄せてくる。

 

正チャは薬剤師2代目である。父の代で売った田んぼの跡地に町立病院が建つ。目前が利いた父親は病院と道を挟んだ地所に薬局を建て薬剤師を妻に迎え息子の正也を薬剤師にする。正也の息子も薬学に通う。正チャは農村育ちでありながら農業経験はなく、農の辛さを知らないところは都会人と同じ感覚である。アキラはここで彼を線引きしているが、しかし芳チャに比べると「正チャの方が見込みがある。親の代からの薬局をつぶしたらメンツがもたん。人に使われるのは嫌。高速飛ばして県境のトンネル抜けて一時間もかけて通わんといかん電力病院には行きたくない。」「それでいい。その気持ちがなかったら組織に入っても使われるだけだで。」と汚れ仕事を引き受けるであろう彼の要素を評価し、つけこむ。後の2人と違って大学教育まで受けた芳チャは、インテリで頭でっかち、プチブルで世間知らずのぼんぼんである。坊っちゃん特有の鈍感さがある。彼もまたある種の日本人の一典型として描かれている。

 

芳チャは悲しい。親はもともと小作人で、戦後の農地解放で田んぼをもらい自作農となる。親は今も谷に住み農業を続けている。息子の芳チャは農業を継がず、高卒で地元の電力会社に就職する。「芳チャのところはもともと小作な。……なんにもしないで田んぼが手に入ったもんで自分の力で何かを手に入れるっちゅうことを知らん。陰に隠れて要領よく、おこぼれが落ちてくるのを待つっちゅう癖がからだに染みこんどる。」とアキラに批判されている。芳チャは確かにそんなに裕福ではない家の息子で、高卒時の選択肢として最も固い就職口として電力会社を選び合格する。しかし就職したものの入社してから原発の危険性を知り、「滅私奉公、企業の犬」とならないように自戒しつつ、サラリーマン稼業をこなしてきた。しかし処分場で事故が起きてからは良心に従い反対行動をしようとしたがうまく行かず「同郷同年」の親友たちに追い詰められて自死を選んだ。芳チャにはたくさんの実在の人たちが重なってくる。

 

人物像の説明につい字数を費やしてしまった。上演ではこのそれぞれに個性的で面白く劇中どんどん変化してゆくキャラクターを、3人の役者たち、酒井高陽、イシダトウショウ、アンディ岸本が好演した。できあがった舞台は整っていて何の文句もつけようがない。しかしそれだけであってそれ以上のものではなかった。その破綻の無い上品な仕上がりに、観劇後私にはもの足りなさが残った。理由を考えるに、役者は皆脚本をよく理解していたと思うが、それが頭のなかだけのことだったからかもしれないと思う。

例えば、芳チャ。処分場では事故が起き、汚染水が漏れ続けていたのである。このままでは故郷の谷まで汚染されるという危機感から必死で反対運動をし始めたものの、すでに職なく妻子なく唯一残った運動体の仲間の信までアキラの謀略で失うかもしれないとわかったとき絶望して死を選ぶしかなかった。窮地に追い詰められてゆくとき人間はもっと変貌するのではないのだろうか?アンディ岸本の芳チャに死の淵へ追い詰められてゆく人間が感じられなかったのは私だけだろうか。逆に追い詰めるアキラだがここで彼はもはや破れかぶれで親友を脅迫しているのである。その凄みを酒井高陽はもっと出せたのではなかったか。薬局の待合室は主人の正チャの心そのものである。埃をかぶったりリニューアルしたりするにつれて正チャもうらぶれたりパリッとしたりする。イシダトウショウはその背景の待合室の変化を利用してもっと人間のずるさや愚かさを出せたのではなかったろうか?くるみざわしんの脚本は淡々としているが、恐ろしい事実がえぐり出されている。もし次があるなら、キャラクターそれぞれに待ち構えている激流下りのような人生一つ一つの局面にさらに肉薄する鬼気迫る演技が観たいものである。

 

ところで、タイトルに使われ、キーワードとして劇中頻出する「同郷同年」という語の「郷里が同じであり」「同じ年齢である」という現象は、3人の男たちの絆と結束の理由であり、物語途中からは呪縛の鎖となる。「同郷同年」に最もこだわるのはアキラである。彼は第1景終盤でこのように正チャに語る。

「俺たちは同郷同年だで、形を変えても同郷同年な。根っ子は一緒なんだでな。どっちがどっちかわからんようなところから生まれてきて、死ぬときまたどっちがどっちかわからんようなところへ行ってお互い様にきっとなるんだで。」

似た内容が第5景最終場面で繰り返される。正チャに語るアキラのセリフである。

「俺たちは同郷同年だで。どっちがどっちだかわからんようなところから生まれてきて、死ぬとまたどっちがどっちだかわからんようなところへ帰ってゆく。それだけのことだでなん。」

正チャの絶句をはさんで「俺はもうどっちにおるのかよくわからんけど。」とアキラがつぶやき、芝居は終わる。「同郷同年」とは何なのだろうか? この語は作者の造語と思われるが「同郷」あるいは「同年」だけでは足りないものがあるのだろうか?

 

日本人が日本の風土のなかで長年かけて築いてきた社会は、有力者を頂点とする序列構造の定まった排他的なタテ社会である。身分や地位で序列の上下を作り、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりする閉鎖的な組織や社会。そこでは力あるものが金や権力や暴力にものを言わせて不都合な意見を封じこめることも往々にして行われる。この作品に出てくる「力あるもの」はわかりやすい。むろん国・会社・町である。「同郷」はこのタテ社会の関係性における縛りを表現し、それだけでは割り切れない人間の関係性の網を「同年」というヨコ社会の繋がりを表す言葉で表現しようとしたのではなかったか。

アキラは言う。人間は「どっちがどっちだかわからんようなところ」から生まれて来て、死ぬとまたそこに戻り「お互い様になる」。人間の人生なんて「それだけのこと」。「どっちがどっちだかわからんようなところ」は「父母未生以前」の世界のことだろう。アキラの理屈からいうとそこから繋がっている「同郷同年」は血より濃い永遠の絆なのである。

第3景でアキラは正チャに「俺は先祖代々の田んぼ捨てて電力に入った人間だでな。……死んだら地獄行きだで。同郷同年が大事な。死んだ後も残る。地獄でも三人一緒だで。」と語っている。最後の最後に「俺はもうどっちにおるのかよくわからんけど。」と独り言のようにつぶやくアキラの視線は、この世にあるのかあの世にあるのかもはやわからなくなっている「地獄」を確かに見つめていた。

 

作者のくるみざわしんは、書くことと同時に活動家として行動することをいとわない作家であるが、彼が書き続け、行動し続ける理由を想う。

彼の生家は長野県の河野村に代々続く農家である。戦時中村長として国策に従い満州に分村を作るが、敗戦で村民が集団自決をし、責任を感じて自死を選んだ祖父を持つ。この祖父の生と死を作者は全身で受けとめ生きてきた。祖父の苦悩を辿ることが、彼が書き行動し続ける力の源なのではないだろうか。彼が書きたいものは、農民層を搾取しながら成り立って繁栄してきたこの国の歴史であり、それを生み出してきた構造悪であり、農家に生まれた人間の一人であるがゆえに知る農民たちへの近親憎悪である。この作品が社会派戯曲として取りあげている問題は、原発問題にせよ処分場問題にせよ、作中において一切解決されていない。描かれているものは「同郷同年」の呪縛のなかでもがくムラ社会に生きる人々の苦しみ、メジャーなメディアでは取りあげられることが少なく、都会人があまり気づかない土の匂いのする土俗的な世界である。「俺は最終処分場より怖い人間だでな。」とアキラに語らせる作者は現在の日本の社会問題の背後に広がる問題の根深さを執拗に書きこむ。作家くるみざわしんの執念である。

(了)

 

 

プロフィール

岡田 祥子

16歳から短歌に熱中、寺山修司の短歌「田園に死す」を愛唱する高校生だった。この頃から観劇はアングラ中心で、大学祭で山海塾の「金柑少年」を観た日の衝撃は忘れられない。高校の国語科教員となり、退職まで演劇部の顧問として、寺山修司、チョン・ウィシン、唐十郎、等々、高校生と戯曲に向き合い、芝居作りを楽しんだ。リタイアした今、これからは、書く人になりたいと思う。